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死にたがり

僕のいくつかの友人はしきりに死にたいと言う。その度僕は自分を凡々と思う。なぜなら僕は不幸の折にも死にたいと思わず、朝ふと目覚めた時にも、過去の後悔や現在の淋しさにも死にたいと思わないからである。そして彼ら彼女らの「死にたい」は全く真剣だからである。「死にたい」というのを本当に死にかねない様子で言うのである。そんな真剣な事態が僕には無いので、僕は僕の悠々自適を陳腐に感じ、時には屈辱にも感じるのである。

自殺の霊は延々とその当時の苦しみに苛まれ続けるという。首吊りながらうめき苦しみ、それまでの最悪な時間をその脳裡に留め続ける。飛び降りながら煩悶し、その落下の冷たさと衝突の激痛を無限に繰り返す。「だから止しとけ」という僕のよく言うこの助言は一種の恫喝行為であるが、これは凡々である僕が「死ぬな」とは素直に言えない為の手段なのである。「だから生きとけ」とも僕は言う。その苦しみを少なくとも発散してからでないともっと辛いからと言う。最悪の時には、もっと最悪なことについて思い浮かべたら良い。

「生きてればいいことあるから」だと少しいけない。それは応急処置であり、当座のやり過ごしであり、少なくとも私の前では死なないでいてくれという引け腰の言い逃れである。これを言うには、正々堂々と彼ら彼女らに向き合わなければならない。その「いいこと」を早速君が用意してあげないのであれば嘘つきである。


もともと虫けらの我々が何を思い上がって自分は惨めだ最悪だとほざくのか。他の人らが高貴に見えて仕方ないのであれば、それは相当な思い違いである。生きる価値もなければ死ぬ価値もない虫けらなのに、さも何かきっと大切なものがある筈なんだと思いたがっているようだ。なにかを随分と履き違えている。黙って生きとけ!

語り進めば僕の口調はだんだんと宗教家の雰囲気を帯びてくる。凡々の宗教家である。

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