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元旦

 窓を横断する一筋の道をひとつの原付が音もなく通過した。佐々木である。間もなく砂利の音がして、彼は私の玄関に来るのだ。
「君があの道を来るのが見えたよ。空がのっぺらぼうに青くて、音はそこの木のざわめく音だけなんだ。」
「君は画家だね。」
「少し首をもたげれば、あの右の小山の、向こうの屋根が君の家だ。」
「僕は常日頃から君の画材ってわけだ。へたに動けない。」
「嬉しいんだ。僕一人のこのさみしい風景の中に僕の友人が登場する。君は生活を僕に持ってきてくれる。」
「大袈裟。おほめかい」
「いやただの感傷。」
「とにかく正月だ。君のいう生活ってのはこれのことだろう。」
佐々木は小さなカバンをぽんと指す。
「僕の生活は酔狂か。当たっているかも知れない。」
「とにかく正月だよ。いつものとは違うはずだ。グラスと氷。」
私の家に寄るとき、佐々木は決まって酒を携えてくる。平常は缶ビール数本というのが相場だが、この元旦に彼は日本酒をこさえてきた。いつものショルダーバッグがいびつに膨らみはち切れそうである。グラスと氷を持ってきて、小さなテーブルを挟んで座り、真面目な顔してお互い注ぎ合った。
「なんか部屋がすっからかんだね。」一口含んで佐々木が言う。
「断捨離ってやつだ。正月のイベントだろう。」
「カーペットも、捨てたのか。」
「ああそうだ。一度掃除のつもりで剥がしてみたら、どうやらこっちの方が良いような気がした。」
「いちめんフローリングで、新居か空き家のようだね。」
「新居、その感覚だ。そうだ全く新居みたいだろう。」
「みすぼらしくも見える。生活感がますます無くなったね。」
「上等だよ。カーペットなんて、いちばんの曲者かもしれない。まさに住宅展示場の、括弧付きの生活だ。すっきりした。」
「これじゃあ少しくらいこぼしても全然構わないね。」
佐々木は笑いながらグラスを傾け氷を鳴らした。

 砂利の擦れる音がした。おうい栗田、と佐々木は外からぶっきらぼうに叫ぶ。その声を合図にして私は玄関へ駆けつける。これがいつもの習わしであった。
「あけましておめでとう。乾杯しよう。」
カバンをぽんと叩いた。ビールの缶の当たる音。
「新作かい、また絵の具くさいな。」
「佐々木ももう慣れたものだろう。普通の人なら、配達の人なんか初対面でもあからさまに鼻を押さえるんだ。のけものさ。」
「のけものでも、お前はこんなにゆっくりできて、羨ましいね。おれはもう明後日からお勤め。今日もこのあと挨拶回りだ。」
「そうか。じゃあ正月も何もあったもんじゃないんだね。」
「おまえだって、至極平常運転のようじゃないか。門松もないのか。」
 厚着を脱ぎ捨て地べたに座る。佐々木はいそいそと缶を開けて、乾杯もなしに飲み始めた。僕はそんな佐々木を横目に、窓の外をなんとなくながめていた。
「部屋に入って、なにか気づかないか。」
「クイズか。まどろっこしい。」
「カーペットを捨てたんだ。綺麗だろう。」
「なるほど、言われてみれば殺風景だ。カーペット捨てるなんてことも、お前にとっちゃあ平常運転じゃないか。」
「そうか」
 つまらなくなって、テレビを付けると賑やかであった。一月一日、ただの平日である。

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