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堕落論|坂口安吾

半年のうちに世相は変った。醜しこの御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

戦後、軍部は未亡人を題材とする小説の執筆を禁じた。赤穂四十七士は英雄的な活躍の後に皆切腹を命じられた。武士道の時代、主君を討たれた人間は仇討ちを責務とした。日本の終戦は天皇の号令によるものであった。

坂口安吾は日本におけるこのような事象を挙げ、そしてここから日本人の性質を逆説的に提示した。すなわち我々は「権謀術数の民」である。
これらの反自然的な掟は、むしろ禁じられるところの”堕落”した性質、フシダラでどうしようもない元々の性質を如実に示している。美しいものは美しいままで終わらせたいのだ。しかし一方で顕なのは、そんなものは普段あり得ないという自覚である。大義名分に殉じるという崇高なモットーは、そうでもしないと敵とも仲良くなってしまうという私たちの”人聞きの悪い”性格を押さえつけている。すなわち我々は、自分の性質からできるだけ自分を遠ざけようとする権謀術数の民なのである。「堕落論」は、日本人のこのような大義名分的な取り繕いを指摘して、それを一旦止さないかと説く。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

「人間」と安吾の書く通り、人間一般の性質がこのようである。マリアは処女のままであった。そして人間は決して”堕ちきる”ことはできない。いつしか自然に、自尊心からその堕落を制御しようとしてしまうに違いない。その意味で反自然的な掟は、もっとも自然の、人間らしい掟である。

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