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140 医師が覗き見る「日本社会のイマ」

postーコロナで浮かぶ世界観を覗いてみた。今回もまとまりの無い話題である。

まずは、この世の進歩に注目してみる。

face to faceは人の理解の速度と深さを促す。それは進歩を演じる舞台では特に重要だ。
例えば、高校ラグビーの天才と言われる精鋭が各大学のラグビー部に入ったとしても、そこで更なる進歩が無くては、通用しない。大学ラグビーで活躍しても、社会人に入ったら、更なる進歩が無くては全日本級のレベルには達しない。要するに天才的なプレーヤーも、幾度となく、窮地に立たされた挙句の果ての進歩が無くては日本のジャージーは着れない。そんな進歩はクラブチームでface to faceで培われて行く。
これは最先端の技術で凌ぎあう企業でも同じであろう。
大手テック企業でのリストラが話題になるのだが、その対象の多くは遠隔で仕事に携わる社員だそうだ。遠隔で最先端を担う様な進歩は望めないと言う事は、コロナ禍ではっきりしてきた。だが、彼らは、それなりの技能の持ち主なので、すぐにリストラされても職は見つかるそうだ。この動きはテック内での配置転換と捉え、楽観視する向きも多い。要するにテックで1軍ではないが、2軍では彼らの能力は求められているのであろう。
一方で、そんな進歩だけが社会ではない。進歩というより、昔ながらの安らぎのある環境を求める人も多いのだ。そんな方々には、ネットの世界は向いていない様に思えるが、そうとも言えない。ネットには利便性が求められるのだが、鎬を削る様な、厳しい世界ではない。人里離れた一軒家で、ネットだけで繋がり、気楽な生活を謳歌できそうだ。ある程度の資産が出来たら、そんな生活を送りたいというのも分かる。米国で、トレーラーで住居を移動させ、合衆国を転々としながら生活する人々にハイウェイで出会す。彼らにとって収入を遠隔で得る事は都合が良いはずだ。ヨーロッパで、運河に浮かぶボートで移動しながら生活をエンジョイする家族などもいる。これも同様であろう。遠隔はそんな生活者を増やして行きそうだ。
現世で、天国のような生活ができるはずだと言う考えの人は、そんなライフスタイルを好む。ネットはそんな生活をサポートしてくれるはずだ。

さてここで、又、別の観点から人間社会を覗いてみる。
#40で 適合的期待形成、とフォワードルッキングモデル的な期待形成を取り上げた前者は現在と過去の情報に縛られた期待形成でありバックヤードルッキンモデルとも言われる。後者はあらゆる情報を組み入れて行う期待形成であり、合理的期待形成とも言われる。
進歩をとことん追求する企業戦士にはフォワードルッキングな期待形成は欠かせない。しかし、社会生活を見回すと、バックヤードルッキンと言われる人々も多い。ロシアのプーチンの思考もそうなのかもしれない。エカチェリーナ大帝の時代から彼は先祖返りしている様にも見える。
哲学者が『われわれ一人ひとりの気が狂うことは稀である。しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ。』と言ってた。ロシアのウクライナ侵攻を見るにつけ、この言葉が思い起こされるのだが、反面教師の感がある。
『集団、政党、国家、時代の気が狂う事は稀であるが、一人一人の気が狂う事は日常茶飯事なのだ』と言うのが現在進行形のウクライナ侵攻の悲劇であり真相の様に思える。
しかし、これは正確にどちらのモデルに属するのか線引きは容易でない。ニーチェは『過去が現在に影響を与えるように、未来も現在に影響を与える。』と言っている。プーチンの戦争を全て彼のバックヤードルッキンに帰結させてしまうのは合理的思考ではない。
冷静な思考は人間社会にはバックヤードもフォワードルッキングも実存することを認める事なのかもしれない。

また別の観点から人間社会を見る。
不幸にして不遇な人生を送っていても、古今亭志ん生のように『貧乏は味わうもん』と言う笑いは高い人格を滲ませている。江戸時代からの落語に代表される笑いは庶民目線からの芸であり人柄からくる高い芸術なのではないだろうか?
確かに西欧の王朝貴族に庇護されて熟成した文化もある。しかし、印象派の時代は日本の浮世絵に触発されたのであろうが、普通の世間に沢山、感動がある事に気づいた訳だ。日本の芸が普通の人々の心情や、身の回りの普通な風景から湧き出てくる感動であり、笑いであることに西欧人は気づいて、影響を受けて、数々の芸術家を排出して来た。
日本は温故知新の精神を貫いて、もっと自信を持ち、世界の牽引役となるべきであろう。しかし、自分を振り返るとそんな気分になれなかった。敗戦の焼け野原とか爪痕が残る時代に生きてきた我々は、引っ込み思案になりがちだ。しかし、戦争を知らない世代は増え続ける。彼ら彼女らにはこの世も違って見えるはずだ。何かしら新しいものが生まれてくるのではないか?などと漠然とした期待が生まれてくる。言い換えるとフォワードルッキングな気分になっているこの頃でもある。

そんなこんなの取り止めのない雑念が湧き出てくるのが、post-コロナなのかもしれない。

コロナに密着して行きます。





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