見出し画像

# 49 悩める人間

どんな人でも、一気に暗くなる
『君も必ず死ぬんだよ』と言われると。
死に対する恐怖について考えたい。この問題はあまりにも深くて、どこまで掘り下げられるのか?
漸進法で進める。
1。数年前に僧医の講演を聞いた。医師であり禅宗の僧侶である彼、曰く「死ぬことは怖いとは思わない。天寿をまっとうすると、意外に思うかもしれないのだが、死に直面しても、気持ち良く死を迎えることが可能だ。僧侶はそれを知っている。死期の近いことを悟ると、自ら食事を取らなくして、早めることもある。」
2。それは、死に直面した際の重要な視点であり知恵でもある。しかし普段からの死んだらどうなるのか?と言う不可思議への不安は別の問題としてある。
死後の世界を語るものは数々あるのだが、何か作り話の様に思えてしまう。
3。生き物は人間だけでは無い。動物も死にたく無いのであり、襲われると必死に抵抗するか、逃げる。人間の場合は直接、他の動物に狙われるとは考えないのだが、微生物に襲われる。
死への反射的な防衛本能以外に、人間は死後の世界を考えてしまう。死後の無は一体なんなのか、じっくりと考えてしまう。
無とか死後の世界を一人称で考えると、色々と不透明感を伴って思いは広がって行く。
死後、無が永遠に続くとしたら、恐怖だ!
4。要するに、死ぬことよりも無が恐怖ということか?
5。仏教では無ということは、我が無くなると言う意味で使われているようだ。空と言う概念が根本のようである。絶対的な存在は想定していない、常に物事は変化しているのであり、その流動性に線引きするのが人間の常である。線引きをして、我を浮き上がらせ、固定して、主張するのは間違っている。流動の最中に生があり、存在しているようで存在していない。死への流れもそこで線引きする必要はない。生から死へ、またその逆、と繰り返すわけで、この切れ目のない連続性を輪廻転生と言う概念で捉えている。
6。無とか死の世界を2人称、即ち知人の死、や3人称、即ち見知らぬ人の死、として考えると、無から生が生まれ、生から無に移行する事は現象として捉えられる。
無について物理学では「古典物理学において、物理的に何も無い真空は完全な無であると考えられてきたが、現代物理学においては、真空の揺らぎから何も無いはずの真空から電子と陽電子のペアが、突然出現することが認められている。このことによって、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは存在しないとされている。無とはそもそも真空とはまったく違う。ある空間がまったく空っぽであるように見えても、量子力学的にはいまだ何らかのものが存在しており、空虚な空間は微小な分子やエネルギーに満たされているため、何もない状態とはまったく異なる。ただ運動量ゼロの静止状態にあるだけなのだ。
7。永遠に続く無、絶対無は存在しないと言うことで、仏教と物理学の見解が一致した。
8。しかし、両者では死に関しての考えは異なって来る。仏教的では空は続いていて、死後の世界にも連続している。一方で、物理的には死により人間を構成する分子やエネルギーは一瞬ゼロの静止状態になる。しかしそんな真空状態から何かが出現するのであり、それは連続性があるのではなくて、突然性であると言うことだ。突然の中身はなんであろうか?ボルト氏は「哲学的観点からすると無は何もないというよりもむしろ、何か新しいものを生み出すための確かな概念的存在なのだ」と推論している。
一人称的には死後、自分がどんな新たな姿を突然、現すのか知りたい。
9。以上から、「死後、無が永遠に続くとしたら恐怖だ」と言う沈黙する無の恐怖から逃れられそうだ。。
10。しかしここで、神とか如来の関わりは議論しなかった。
今後、考えてみるつもりだ。
おそらく、無の意味が深まって行くはずだ。

哲学とは無縁の自分ですが、この話題によってでしょう、哲学している様に見えるのです。  
普通に幸福を願っています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?