見出し画像

「集う」リレーコラム③-川口 ゆり

こんにちは!SUSONO文化放送部のゆりです。「何を書こう?」と考えている間に9月になってしまいました。考えすぎも困るものです。私の住む札幌という街はすっかり秋の匂いです。皆さんの街はまだまだ暑いでしょうか。季節の変わり目でもある揺らぎのある時期ですが、どうぞゆったりとおつきあいください。


思い出すのは幼い頃の家族とのキャンプ。「集う」がいつも身近にある日々


私は北海道で生まれ育ったこともあり、幼い頃の記憶といえば広々とした自然の中でのキャンプだった。札幌から車で1時間も足を伸ばせばキャンプ場なんて沢山あるし、仲良しの従兄弟や親戚と一緒に夏になるとアウトドア用品を一式持って頻繁に出かけた。山や沢を探索して静かに風の匂いを感じることも、朝露に濡れた草花の美しさを見る経験も、お肉や野菜を焼いて恵まれた大地の素材そのものの味を楽しむことも、日常生活ではなかなか味わうことはできない。そして、それらの尊さを自分一人のものにしておくのは勿体なかった。

親戚も入れるといつも15人以上の大人数になったが、小さな頃から集うということの意義をそのような形で身近に感じてきた私は、大人になってから飲み会に行くことや大勢の人と食事をとるということに対して抵抗がない人間になった。むしろ好きだ。

実際に、社会人になってからこのかた4年、常に職場では幹事をやってきたし、SUSONOキャンプという今月中旬に迫ったイベントを今は企画している。


集いたくなる本質は、愛の持ち寄りと受け渡しの欲求かもしれない

では、人はいったいどんな時に集まりたくなるのだろう?

そもそも論になってしまうけど、人は別に他者と集わなくとも社会生活を送ることができると思う。

例えばキャンプに限らずとも大人数でごはんを食べることを例に出すと、それはとても楽しいことだし幸せなことだけど、多数の人々がいるコミュニティに属していても群れずにひとりでごはんを食べたっていいし、そもそもコミュニティ自体だって必ずしもその中で集うことが大切かどうかなんて、わからない。

こうして世の中にはたくさんの集うが溢れているけれど、きっとそこに義務なんてない。


それでも、わざわざ時間をかけて、連絡を取りあって、待ち合わせをして、時間を共有するということ。集うの本質は、そこに宿っているのだ。

わざわざという手間、そこには愛が見え隠れする。「かけがえのない時間を誰かとともに過ごす」とか、「会話の中で生まれる発見や感動への期待値」など、あげるときりがないけれど、それらは全て愛なのかもしれない。

それを目の前の人に受け渡したいという欲求や、空気を分かち合うこと自体への喜び。そうした欲求があるからこそ、人は集いたくなるのかもしれない。

集うことから派生する様々な愛情の形を感じていたい


大人になってから、利害関係だけではない広い人付き合いをより大切にするようになった。その関係をより深めていく為には私にとっては集うことは欠かせなくて、出張や旅行でどこかの街に行けば集っている。1対1のコミュニケーションが好きではあるが、集いの中で生まれる軽さを持ったコミュニケーションだって自分にとっては同じくらい大切だ。

そこではいつも、きっと上記に書いたような愛情を感じているのだと思う。

想いが重なりあうこと、それがグラデーションとなって自分自身を包んでくれるということに自分なりの幸せを感じている

だからこそ、集うことはやめられない。これからも自分が幸せを感じていたくてきっと誰かとどこかで集うのだ

また新たな集いの計画を立てよう。そこに宿る愛情の全てを感じながら、さらに日々を豊かに耕していきたい。そんなことを思う、秋のはじまりの日。


お次はスナックSUSONOでママをやってくださったゆかりさんの番です。

お楽しみに・・!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?