マガジン一覧

ハワイの神話と歴史をたどる

ハワイ諸島へ到達したポリネシア人が残した神話、ハワイ王国を築いた人々やハワイを訪れ、移り住んだ人々が残した著作(旅行記、小説、絵画、写真)を読む。

ペレ①ハワイの火山の女神

ハーブ・カワイヌイ・カーネは、ハワイと南太平洋を描く画家、歴史家、著述家。1987年にキラウエア火山のカルデラの西側火口縁に開館したトーマス・A・ジャガー・ミュージアム(現在は閉館)で、ハワイの火山伝説と科学的知識を統合した展示を行うために制作した資料をもとに、本書を出版した。 彼女の名前はペレ。ハワイの火山を支配している。人間には彼女に逆らう力はない。ペレからの知らせは最終決定を意味する。その姿は、長身の美しい娘だったり、腰の曲がった皺くちゃの老婆だったり。白い犬を連れて

5

ペレ②突然怒り、狂暴になる

彼らは海洋民族だった。石器で作り、編んだ縄で繋ぎあわせた航海用カヌーを造った。それを海図や計器なしで操り、ハワイ、ニュージーランド、イースター島の広大な三角地帯を大航海時代より前に探検し、移住した。彼らの食用植物、家畜、言語の起源をたどると東南アジアへ行きつく。 ☆ 原ポリネシア人は他民族に追われ、海へ逃れた。特徴的な土器の破片などの古代の遺物の発見で、彼らがメラネシアの北側を移動したことが明らかになった。彼らのうちいくつかの集団は中央・東ミクロネシアへ北上。東へ移動し続けた

2

ペレ③カメハメハを王にする

ポリネシアでは、相対するものが一対で創られた。ペレとカマプアアの愛憎関係は、その例だ。彼はハンサムなチーフに化身し、背中の豚の剛毛を隠すためにマントを羽織った。また巨大な八つ目の豚や様々な魚、植物に変身できた。カヒキコロという棍棒で槍をかわし、戦士たちを倒した。 ☆ しばしばトラブルを引き起こし、本能的な欲望のままに行動するカマプアアの男性優位主義の性格には、ポリネシア人の知る豚の性質が表れている。 彼の数多くの好色な冒険や激怒した夫たちとの争いの話に、昔は様々な脚色が施され

2

ペレ④石を持ち帰ると災難に見舞われる

1819年にカメハメハが亡くなると、ハワイアンの信仰は廃止された。40年間の外国人との接触によって、神々への信仰が揺らいだのだ。 信仰の放棄を拒んだチーフたちは首都カイルアに向けて行軍した。しかし政府軍が応戦し、チーフたちの軍は敗れ、神々はマスケット銃の前に倒された。 ☆ 数か月後、アメリカ人宣教師がやってきた。 古い信仰の断片は、地下に潜ったり、人々の習慣の中に保護されたりして、今日に残されている。 女性チーフのカピオラニは熱心なキリスト教改宗者で、新しい信仰の力を示すため

4
もっとみる

ホノルルの海と街を歩く

2006年に初めてハワイを訪れた時の旅行記に始まり、2016年にハワイ在住の米国人と結ばれてワイキキで暮らすなかで出会った風景の数々を紹介。

初めてのハワイ①2006年6月21日

私が初めてハワイを訪れたのは、2006年6月21日(水)~25日(日)のオアフ島。ドイツW杯の真っ最中の職場旅行で、ハワイゆきの気分になかなか切り替えられず、成田空港を20時30分に出発したノースウエスト航空機のなかで眠れずに、前日に買ったガイドブック2冊を読み終えたのだった。 ホノルル空港に到着したのは8時50分。外へ出ると、黒塗りのリンカーン・コンチネンタルを、黒人の運転手が手入れしているのを見かけて、ここはアメリカなのだと実感した。JTBのバスでアロハタワーのサービス

4

初めてのハワイ②2006年6月22日

2006年6月22日午前9時からドイツW杯日本VSブラジルをホテルで観戦。前半34分、玉田選手のシュートがゴール左上に突き刺さる。しかし、ブラジルは前半ロスタイムにロナウド選手のシュートで追いつくと、後半8分、14分、36分に追加点を決め、圧倒的な力の差を見せつけたのだった。 日本時間では午前4時に行われたこの試合を観戦した日本人は、今日一日をどんな思いで過ごすのかな。私はホテル前からトロリーバスに乗り、終点のワードウェアハウスまで風に吹かれていた。バスケットボールの試合で

5

初めてのハワイ③2006年6月23日

2006年6月23日午前9時、東海岸クアロア牧場へ。クアロアは古来、偉大な霊力(マナ)が漂う地として仰がれてきた。カメハメハ3世は1850年の土地私有法施行後、主治医でブレーンのジャッドに622エーカー(東京ドーム450個分)の土地を1300ドルで譲り、息子はハキプウとカアアヴァの峡谷、モコリイ島を購入。今もジャッド家が所有。 最初は、サトウキビの栽培を試みるが、干ばつで断念。1900年代に牧場ヘ転換。太平洋戦争で牧場は米軍に接収され、沿岸防御用の基地が作られた。戦後、土地

4

初めてのハワイ④2006年6月24日

ワイキキのにぎわいのピークは、夜9時頃。海岸沿いのカラカウア通りは、レストランでの食事を終え、夜の街に繰り出す人々で溢れる。音楽家、似顔絵師、大道芸人がパフォーマンスを繰り広げる。いくつかのレストランでは、ライヴバンドが演奏を始め、その音楽は店の外に流れていく。 最初の夜は22時頃、クヒオ通りのワイキキトレードセンターにあるナイトクラブ「ザンザバー」へ。ダンスフロアは、既に大柄な白人の女性たち、基地から来たG.I.の男性たちでいっぱい。黒人のMCがダンスフロアで踊りながらラ

4
もっとみる

ハワイを訪れた日本人 戦後編

ハワイを訪れた日本人が残した著作(旅行記や小説や写真)の“さわり”を紹介。彼らは、ハワイのどこに惹かれたのか。

加藤秀俊『ホノルルの街かどから』①住まい、学校、はだし、ハダカ、ププ

ハワイは、日本とアメリカ本土の中間地点にある。だから、これまで20年間、ふたつの国を往復するたびにハワイに寄って2、3日を休養のために過ごした。1970年からハワイに縁ができて、毎年2、3カ月ハワイ大学で仕事をするようになった。暮らしてみると快適だ。 ☆ とりわけ、ハワイがアメリカの1州でありながら、文化的には太平洋文化圏の一部として健在であることが、楽しかった。ポリネシアの人々の生き方をしっかり勉強してみよう、と思った。そんなわけで1972年夏から1年間はフル・タイムでハワ

3

高峰秀子とハワイ 日系米兵との出会い~ハワイに眠る

高峰秀子生誕100年、おめでとうございます。 女優の高峰秀子がハワイと深く係わっていたことを私が知ったのは、夫で脚本家の松山善三との共著『旅は道づれ アロハ・ハワイ』を見つけてから。さらに『わたしの渡世日記 下』には、終戦直後にハワイから日本を訪れた日系米兵、ハワイ生まれの灰田勝彦、ハワイの日系人の歴史について書かれていた。また、高峰秀子の養女となった文筆家・斎藤明美の『高峰秀子との二十年』にはハワイのコンドミニアムを購入した経緯などが記されていた。これらの文章を時系列に編集

8

加藤秀俊『ホノルルの街かどから』②マンゴ、食べ物、ポットラック、授業、コミュニティ・スクール、学園祭、夏休み

5月のなかばすぎからマンゴの実が熟して、食べごろになる。実が青いうちは葉の色と同じで目立たないが、だんだんとオレンジ色になり、最後にリンゴのような赤い色になると壮観だ。1本の木で300個、400個はザラなので、庭にマンゴが2、3本あると食べきれない。 ☆ そこで食べきれない分は、まず人にあげる。うちの庭にはマンゴがないので、お隣のおばあさん、研究所の友人、妻の学校の友人からマンゴをいただいた。冷蔵庫はマンゴであふれている。研究所の片隅にもマンゴが山積。自宅にマンゴをもっている

9

加藤秀俊『ホノルルの街かどから』③小切手、物価高、ラッシュアワー、不要品販売、募金活動、満天の星空、海

アメリカ生活で、最初にしなければならないことのひとつは、銀行の口座を開くこと。現金をもっているのは、最も危険なことだ。そのかわりに、銀行に当座預金を設けて、小切手を使う。小切手帳のデザインを選ぶと、名前と住所を印刷して2週間以内に届けてくれる。 ☆ 小切手の注文後、クレジットカードをすすめられて、申込むと、ひと月以内に送るとのこと。このカードで買物をすると、その金額は自動的に、私が銀行から借りたことになる。返済金額は毎月10~20ドルで、残りは翌月に繰り越し。利子と手数料がつ

7
もっとみる