”問題”と”人”を切り離す必要があるが、多くは「人と問題を同一視してしまう」という事実は知っておくべきである
表題の通り、あらゆる物事を進める際には「”問題”と”人”を切り離す」方が、おおよその場合は上手く行く。
ただ、現実はそう上手くいかないことが、あまりにも多すぎる。
VTuber文化において、それが顕著に現れているのが「鳴神裁」という存在だろう。
先日、upd8所属の企業VTuber「ケリン(@Kerin_Vtuber)」氏と「鳴神裁(@narukami_sabaki)」氏とのコラボ動画がアップされ、物議を醸し出している。
動画単体(コンテンツ)で見れば、ラップ楽曲を通したコラボ動画で、歌詞に両者の背景があってストーリー性が見え、クオリティが高い。
だが、この動画を「コンテンツとして評価してもらう」ためには、あまりにこれまでの経緯と、その後の対応に課題が多すぎた。
その事情や背景に関しては、以下の解説動画を見てもらえれば、おおよそ理解出来ると思う。
※余談だが「鳴神裁の動向について」を知りたがる視聴者層があまりに多すぎることは、両者の鳴神関連動画の再生数を見ると、すぐにご理解いただけるはず。
以下の記事では「ケリンと鳴神のコラボ=スポーツの日韓戦のようなもの」と紹介されているが、多くの場合は「問題と人格は切り離せない」のである。
いずれの動画・記事(およびツイート)のコメントを見てもわかる通り、鳴神裁関連の話題はとにかく荒れる。
感情論と正論が入り乱れ、終始がつかなくなる。
ゆえに、多くの人は鳴神裁という存在に触れることすら避ける。
以前、私が書いた記事においても「VTuber界隈においては”鳴神裁”という話題に触れることすらタブー視されている」という現象について、解説しているが、このあたりの事情や背景もおおいに含まれているように感じる。
これはもはや、鳴神裁が悪いだとかコラボするのがいけないだとか、そういう次元の話ではなく「鳴神裁を悪(あるいは正義)としたい有象無象がコンテンツの評価を歪めている」という次元にまで達していると言ってもいい。
当記事では、戒めや教訓としても、鳴神裁という存在がもたらす集団心理効果を踏まえ、具体的に我々が取るべき行動について考えていきたい。
問題と人を切り離すことが出来ない有象無象が炎上を「でっち上げる」
VTuber界隈において、鳴神裁という存在を論じるにあたって、考えておきたいのが「炎上は”起こる”のではなく”でっち上げられる”もの」であるということだ。
前述の「鳴神裁とケリンのコラボ」の件は、一部の鳴神嫌いが”ケリンが鳴神と交流関係を持ったこと自体が気に食わない”という理由だけで、炎上騒ぎになったと見てもいい。
もちろん、ケリン氏側は鳴神裁のファン・アンチ側がセンシティブであるという事情を踏まえた上で然るべき対処をしておけば、今回の炎上騒ぎは抑えられたかもしれないし、逆に些末な問題でも難癖つけて炎上騒ぎに仕立て上げたい層が現れたかもしれない。
いずれにせよ「鳴神裁が関わるあらゆることを”炎上騒ぎ”にしたい」という層が存在するのは、無視できない事実である。
(たとえ、当事者たちに一切その意識がなくとも、結果だけで見ればそうなっている)
こうなると、もはや「鳴神裁が問題を起こしている」のではなく「鳴神裁を悪だとしたい連中が無理やり問題を作り出して炎上騒ぎにしている」というレベルにまで達しているようにしか見えない。
つまり、本人もファンもアンチも「鳴神裁に他人が関わると炎上が起こる」という結果に引っ張られてしまうがゆえに、因果の逆転が起こっており「鳴神裁が他人に関わると炎上しなければ納得しない層がいる」という状態になってしまっているのである。
そもそもで言えば「あらゆる問題は当事者間で解決するべき」であって、そこに本来他者が介入すべきではなく、当事者が毅然とした態度で問題を対処し、大多数に向けて説明すればそれだけで済む話を、いちいち炎上に仕立て上げなければ気が済まない層が存在し、多くのVTuberは律義にそれに応えてしまう。
VTuberの多くはSNS上でのやりとり自体がコンテンツの一部となってしまっている以上、多少は仕方のないことかもしれないが、本来、問題に一切関係ない当事者以外を巻き込むことは、事の本質をややこしくする結果にしかならない。
いずれにせよ、VTuber界隈の炎上騒ぎを見ていると「本来防げるはずの炎上騒ぎに対して"火に油を注ぐ”行為」が、頻繁に行われている。
これは見る人からすれば「自分たちから炎上騒ぎを求めている」ようにしか見えない。
もちろん、当事者たちは至って真面目に対応しているのだろうし、発端になった関係者も好き好んで炎上させているわけではないはずだ。
だが、ここまで些末な事態が炎上騒ぎになるということは、誰かの意図など関係なく「炎上騒ぎがでっち上げられる文化」自体が定着してしまっているのである。
余談だが、過去に弓削彼方(@Yuge_Kanata)氏のツイートがバズったことがあるのだが、経緯を眺めていると面白いことがわかった。
このツイートは明らかにネタだったのだが、ネタをネタと受け流せない一部の層の悪意的解釈により、炎上バズだと誤解されてしまった。
要は「情報は他人の”悪意ある解釈”により歪められてしまう」のである。
インターネット・ツイッター上ではよく見られる現象ではあったものの、コンテンツホルダー(クリエイター・演者)と消費者(リスナー・フォロワー)の距離感が近くなり過ぎたVTuber界隈においては、とくに顕著に見られる傾向になったと感じる。
感情で動く集団をコントロールするのは多大な労力を要する
残念ながら、多くの人間は「感情で動く」のが常だ。
とくに当事者であればあるほど、焦りや不安から、傍から見れば軽率だと思われる行動に出やすい。
感情にとらわれると、複雑な物事を考えられなくなる。
たとえば「あいつは敵か?味方か?」と、物事をシンプルに考えてしまいがちになる。
鳴神裁に対する評価も、多くの場合は「感情的」であることが多いし、本人自体が感情論的な煽りや印象操作で、他のVTuberや企業をディスるコンテンツを発信してきた。
鳴神裁のコンテンツは、図らずも「特定の誰かに敵意を向けさせる手法」を使っているため、当然のことながら自分およびファン(信者)にも敵意が向けられる。
(「正義」を自称して貫けば、当然のことながら「他の正義」と対立が生まれざるを得ない。逆も然りだが…)
VTuber限らず、過剰な感情論的な印象操作で特定の誰かに敵意を向けさせるムーブは「嫌韓」「フェミニスト」「ネトウヨ」など、ネット上には数多く存在する。
図らずも、鳴神裁は「特定の誰かに敵意を向けさせる装置=自分自身とそのファンやアンチにも敵意が向けられる存在」として機能してしまうようになった。
こうなったら最後、もはや誰も鳴神裁という正義に振り回される信者もアンチも、制御できなくなる。
仮に、鳴神裁本人が「過去の件は忘れてくれ」と視聴者全員に言ったところで、今の状態が収まるとは思えない。
(もちろん、これはやり方次第ではある)
もはや「鳴神裁」という単語が現れたり彼自身が他人と関わること自体に対し、過剰なまでの拒否反応を起こす層が「炎上騒ぎをでっち上げる」以上は、制御の利かない魔物のような存在になってしまっているのだ。
多くの場合、人格と問題は「同一視」されやすい
以上のように、多くの場合は人格と問題は切り離されないどころか、同一視され、最終的には「敵or味方」と単純化されていってしまう。
少なからず、表で対立構図が出来上がってしまうと、ネット世論だけで見れば「その人物に対し、敵と味方しか存在しないように見える」という状態になりがちだ。
事実、特定の人物が何らかの強い意見や主張を表明すると、多くの場合は「賛同する」か「否定する」の二択で意見が分かれる。(…という風に見えるが、実際は中立・日和見をしている層が大半)
そのため「あいつは敵だ」「あいつは自分たちにとって悪い奴だ」と、派閥が出来上がってしまったり、敵対構図になってしまいやすい。
とくに「一方的な情報発信」となるメディア媒体での発信は、両者側の意見や言い分を聞けないがゆえに、どちらか片側に共感するあまり、敵対意識を煽られやすくなる。
私自身の話になるが「VTuber界隈に難癖つける記事でバズってしまって認知されてしまった」という状態に立たされた。
人によっては、この記事を「自分が否定されている」だとか「VTuberに関わるすべてを敵に回している」だとかそういう風に解釈する人間もいるらしいし、逆に共感を覚えた人もいるらしい。
この記事は単に「私がVTuber文化の中で自分の目的を果たすために、まずは課題や認識のズレを理解しておく必要があり、その過程で得た情報をクリエイティブに表現して公開しただけ」に過ぎない。
ゆえに特定に誰かに対しての敵意など微塵もないし、むしろ逆だと言ってもいいぐらいだ。
さらに言えば「主語がデカい」との批判もあったが、それはあくまで「特定個人の固有名詞を出して否定しないための配慮」でしかない。
この記事の投稿後「期待している」などの反響もあったので、一時期は「VTuber界隈の課題提起や問題点を指摘する記事を書くべきなのか?」と悩んだが、なるべく直接的に課題をぶつけるような切り口は避ける方針を取っている。
※このあたりは、櫻井さんの「世の中には課題を発見できる人間とそうでない人間がいる」という指摘が大きな気づきになっている。
正直に言うと「なぜ、お前らの期待に応えなきゃならんのだ?お前らがやれよ、VTuber界隈なんかどうなったところで知らん」とブチ切れたくなる気持ちの方が強い。
何が言いたいのかと言うと、
「他人の期待に応えることで数字は稼げるかもしれないが、それで得られるものは自分が望んだものではない」
…という危険性が、どこにでも潜んでいるということである。
ただ、少なからずアレを書いて公開してしまった以上、あの記事に書かれている内容が「”スシテンコ”というネット上の人格の評価」につながってしまった事実は、否が応でも受け入れなければならない。
事実、今でも多くのVTuberには嫌われたりブロックされてはいるし、さらに言えば現在進行形で「あいつは敵だ、信用できない」と裏で吹聴して回っている輩も間違いなく存在する。
だが、それは私自身の行動選択肢やコンテンツ方針を決める要因にする必要は一切ない。
あの記事を生み出した私を「悪」だとするのであれば、そのように解釈すればいい。
だが「スシテンコが悪であって欲しい」「あいつは悪だから是正するべきだ」という輩の要求に応える必要など、微塵もない。
「問題と人格を切り離せない輩はたくさんいるが、そいつらの望む”問題=敵=自分”であって欲しいという願望に応える必要はまったくないし、その決断を下せる自由が誰にでもある」
課題に取り組むなら「問題と人を切り分けられる仕組み」が必要である
以上のような事情から、VTuber関わらず、多くの場合は「問題と人を切り離して考えることが出来ない」ないし「問題と人を切り離して考えられない人の口コミ・評判に印象操作される」ため、この点には細心の注意を払った方が良いと言える。
(とくに「キャライメージ=第一印象・見た目」が評価値になりやすいVTuberにおいては、この傾向は顕著)
私の場合、初期からの活動方針として「わかる人にだけわかってもらえばいい」「何らかのつながりに発展しそうな人物に関しては裏で直営業しかけるので、表でどう思われようが知ったことではない」という意識があったので、結果として「問題と人を切り離して冷静に判断できる人向けの情報発信アカウント」となってしまい、VTuberのボリューム層からは理解されにくい内容になってしまった。
また、フォロワー層としては「物申す系の視聴者」と被るので、誤解されやすい立場ではある。
(実際、私を仮想敵に仕立て上げてくる層もいるが、敵意だと認識しないようにしている)
ただ、正攻法で行くのであれば「フォロワーや視聴者の味方である≒敵ではない」という雰囲気を作った方が、上手く行く可能性は高い。実際、VTuber界隈ではそういうブランディングをしている人が、伸びている。
多くの人は「その人が敵か味方か?」でしか、物事を判断したがらないし、その方が「楽」なのである。
というわけで、VTuberのみならず、ネット上で情報発信をするのであれば「人格がコンテンツ評価に影響しにくい仕組みづくり(デザイン・ブランディング・集客導線)」か「好印象を抱かれやすい人格(キャラ)を演じてコンテンツ評価に加算する」ことが大事になってくる。
問題と人を切り離す「原則立脚型交渉術」の考え方について
読者の方が情報を吟味したり、あるいは他者と関わる際にも「問題と人を切り離して考える」必要がある。
今回の記事は「ハーバード流交渉術」で紹介されている「原則立脚型」の考え方を参考にしている。
ちなみに、かのドナルド・トランプの交渉戦略に関しては「反原則立脚型」と揶揄されており、強者が威圧する場合に用いられる戦略だ。
私自身、対多数に向けては「反原則立脚型(ハード型)」となりがちなので、このあたりは改善していきたいと感じる。
(個対個であればソフト型であることが多いのだが、最近のネット世論を鑑みるに、個対多であってもソフト型の方が良いように感じる)
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