新谷仁美がメダル獲得を目指す東京五輪女子10000mについて
3/9に世界陸連のHPに新谷仁美のインタビュー記事が掲載された。
女子のオリンピック選手が、出産以外の理由で一度競技をやめ、それからしばらく経って再びトップレベルで競技をしているという事実は賞賛に値する(もちろん出産からのカムバックも賞賛に値するが)。
しかも、そういった選手が「走ることが嫌い」と言うのであれば、それは世界のどの選手を見渡したとしても、とても珍しい選手だと思う。
この世界陸連の記事を見ると、新谷は「高橋尚子のシドニー五輪の金メダルに影響を受けて陸上を始めた」とある。
それはこのnoteの書き手である私が中学の頃の話 - 私の1つ年下の世代である新谷は、ジュニア時代から常にトップレベルの選手だった。
(今年の大阪国際女子でペーサーを務めた新谷)
駅伝で鮮烈な輝きを放っていた新谷
新谷(興譲館)の世代には野原優子(筑紫女学園)という選手がいた。
野原は1年生の世界ユースの3000mでいきなり銅メダルを獲得し、その年の国体の3000mで9:05.63という当時の高1最高記録を出した(その後、小笠原朱里と廣中璃梨佳がその記録を塗り替える)。
怒涛の勢いに乗っていた野原。
しかし、国体の後の都大路1区で野原を破って区間賞を獲得したのが新谷だった。レースの序盤から先頭を譲らないその走りは彼女の類いまれなる才能を感じさせ、「ロードで強い新谷」のイメージを定着させた。
そして、新谷はそれから3年連続で都大路1区の区間賞を獲得した。女子の都大路1区での3年連続の区間賞は日本人選手では歴代で新谷ただ1人しか達成していない。また、この1区の6km(終盤が上り勾配)18分台で走ったのも、歴代で新谷1人しかいない(新谷は2年と3年の時に18分台で走っており、3年の時の18:52が区間記録である)。
かつては1区を走っていた留学生も、そして廣中璃梨佳でさえも高校時代に都大路の1区では18分台で走ることさえなかった(都道府県対抗女子駅伝では実業団選手として廣中と山中美和子のみが1区18分台で走っている)。
新谷はジュニア時代も現在も都道府県対抗女子駅伝で活躍し、横浜国際女子駅伝でも活躍するなど「2000年以降の女子駅伝の顔」ともいえる選手である(ただし、今回の世界陸連の記事で新谷の駅伝での活躍について全く触れられていなかったのは、世界陸連のサイトの選手名鑑に彼女の駅伝の記録が残っていないからだろう)。
高校時代から駅伝で存在感を示していた新谷だが、もちろんトラックでも高校時代に好成績を残している。インターハイ、国体3000m優勝、世界ユース銅メダル、5000mで15:28.70(当時の高校歴代2位)など。
敗れはしたが「シビれた」モスクワ世界選手権
彼女のレースで、私が1番印象的なレースだと思っているのは駅伝ではなく、モスクワ世界選手権10000mの5位入賞のレースである。
新谷は前年のロンドン五輪の10000mでは惜しくも入賞を逃していたが、足底筋膜炎に苦しんでいた新谷にとって、このレースは大きな決意を持って臨んだレースだっただろう(その後に現役引退をした)。
このレースで新谷は3500m〜9500mまで先頭でアフリカ勢を引っ張った。最後は4人のスパートに屈したものの、世界大会での5位入賞は立派な成績である。そして、この時の記録 - 30:56.70は今の新谷の自己記録である。
新谷は前年のロンドン五輪でも30:59.19で自己新だったが、このようにプレッシャーのかかる世界大会の決勝で自己新を何回も出せる選手はなかなかいない。彼女は大舞台に強い選手だと感じる。
新谷は今、2013年の記録を越えようとトレーニングをしている。
彼女が現役を引退してOLだったころ、芸能人が出る駅伝(バラエティ番組)に元アスリート枠として新谷が駅伝を走っていたことを考えると、現在と当時のギャップがとても新鮮だと感じる。
良い意味で彼女は、記憶にも記録にも残る偉大な陸上選手である(そして、1つ目の日本記録をハーフマラソンで手にした)。
東京五輪女子10000mを目指す選手たち
新谷はまだ東京五輪の内定を得たわけではないが(5000mと10000mで参加標準記録を突破している)、彼女が10000mでメダル獲得を目指していることを前提にそのレースにどのようなメンバーが集まってくるかを現段階で考えてみたい。
【2019年ドーハ世界選手権:女子10000m】
上位4名は東京五輪でも強力な存在となるだろう。ハッサンは東京五輪でどの種目を選択するかが注目である(以下で詳細を記載)。5位だったH. オビリも5000mがメインであるから、10000mに出てくるかどうかは現時点ではわからない。
7位のS. クルミンズは2018年欧州選手権10000mの銀メダリスト。2017年ロンドン世界選手権とドーハ世界選手権ではどちらも10000mで入賞(日本人選手に先着)しており、2015年北京、2016年リオ、2017年ロンドン、2019年ドーハと4大会連続で10000mに出場している(5000mは2013年モスクワ、北京、リオ、ロンドンと4大会連続出場)。
アフリカ勢は手強いが、新谷がメダルを狙うとなると、このクルミンズとアメリカ勢(以下で詳細を記載)を倒すことが必須になってくるといえる。
12位のC. バスコムと13位のE. パシュリーは去年になって力をつけた選手。2人ともに入賞ラインに引き上げたいだろう。14位のダイバーはマラソンでも参加標準記録を切っているので東京五輪ではどちらの種目を選択するだろうか。
【2019年世界ランキング:女子10000m】
【2019年女子10000m世界TOP28】
25位のマッコルガンは5000mで五輪を狙うだろうが、持ち味のスピードを活かせば10000mでも面白い存在となりそうだ(彼女の自己記録は3000m8:31.00、5000m14:46.17)。
【2016年リオ五輪:女子10000m】
金メダルのA. アヤナは故障の影響でこの2シーズンほぼレースに出ていいない。銀メダルのV. チェリヨットは東京五輪にマラソンで出場。銅メダルのT. ディババは最近、第二子を出産した。
【2017年ロンドン世界選手権:女子10000m】
銅メダルのA. ティロプは世界選手権の10000mで2大会連続の銅メダルを獲得。
ハッサンとサルピーターはどちらを選ぶか?
① 女子10000m現世界王者のシファン・ハッサンはどの種目を選ぶか?
ドーハ世界選手権の女子10000mのラスト1500mを3:59.09で走ったS. ハッサンは、屋外の世界大会で初の金メダル獲得した。ハッサンはそのレース後に、
「この後は1500mを走りたい」
と述べたが、コーチのサラザールは彼女を5000mへ出場させることを希望していた。その後、サラザールはドーピングスキャンダル発覚でドーハから追放された。
ドーハ世界選手権の女子1500m・5000mは、ともに予選が大会6日目、決勝が大会9日目に行われたが(1500m準決勝は大会7日目)、ハッサンは1500mに出場することを選び、1500mと10000mの変則2冠を達成した。
以下は東京五輪の女子中長距離種目の日程である。
女子5000m予選:7/31 夜
女子1500m予選:8/3 午前
女子5000m決勝:8/3 夜
女子1500m準決勝:8/5 夜
女子1500m決勝:8/7 夜
女子マラソン決勝:8/8 朝
女子10000m決勝:8/8 夜
5000mと10000mの2種目で兼ねるのが日程としては一番妥当である。
ハッサンの得意距離は本人曰く3000mということであるが、1500mと5000mは守備範囲。また、東京五輪の10000mは暑さからスローペースになる可能性が高いことを考えると(=ハイペースで押していくのも、いち戦略ではあるが)、東京五輪の10000mでも当然、ドーハのレースように終盤のスピードアップがポイントとなってくる。
よってハッサンは現段階では1500m、5000m、10000m全てでメダル争いが可能といっていいだろう。彼女はドーハと同じく3種目にエントリーして、メンバーなどを見てどの種目を走るかを選ぶのかもしれない。
ただ、彼女の懸念点としては、現在コーチがいないということ。今は元オレゴンプロジェクトのアシスタントコーチのティム・ロウベリーの元で練習をしているが(その体制はオレゴンプロジェクトの時と同じ)、誰が彼女のメニューを作成しているかは不明である。
女子中長距離の顔ともいえるハッサンが、10000mに出るか出ないかによって、10000mのレース展開が微妙に変わってくることがポイントである。
② 欧州最速のロナー・サルピーターは10000mかマラソンどちらを選ぶか?
東京マラソンを2:17:45(世界歴代6位)の大会新で優勝したL. サルピーター。当然、マラソンで東京五輪を目指すかと思いきや、10000mかマラソンかをまだ決めかねているようで、これからコーチや代理人と相談して決めると、東京マラソンのレース後の記者会見で話していた。
それもそうだ。
これまでサルピーターは世界大会には全てマラソンで出場している。リオ五輪は途中棄権、ロンドン世界選手権は41位、ドーハ世界選手権は途中棄権。
いずれも良い成績ではない。
ロンドン世界選手権の時までは、競技実績が優秀ではなかったが、サブ2:20を記録してから臨んだドーハでも途中棄権。当然、札幌でのマラソンは夏のレースとなるので、リオやドーハの暑い場所でのマラソンでサルピーターの実績がないのが気がかりである。
サルピーターは2018年欧州選手権10000mの金メダリストであるが、10000mの自己記録は2019年の欧州10000mカップ(Night of the 10,000m PB’s)での31:15.78である(ちなみにこの時は良いペーサーがおらずほぼ単独走だった)。
実際のところ、彼女のマラソンの走力を考えると10000mで30:30ぐらいの力はゆうにありそうである。東京五輪で彼女が10000mを選ぶメリットとしては、8月に10000mを走って、9月のベルリン、または10月のシカゴ(または他の秋のマラソン)に照準を合わすことができるという点である。
また、サルピーター以外では、2019年のアジア選手権10000mで新谷を破って金メダルを獲得したS. エシェテ(バーレーン)も東京五輪でマラソンか10000mどちらを選ぶかに注目したい。
エシェテはサルピーターと同じくドーハ世界選手権はマラソンに出場したが途中棄権だった。エシェテはその1ヶ月後のリュブリャナマラソンで2:21:33の2位に入っているが、先日の東京マラソンでは2:27:34で8位だった。エシェテは昨年はアジア選手権での1回しか10000mに出場していない。
今回も手強いアメリカ勢
新谷がメダル獲得を目指す中で、アフリカ勢以外で手強い存在となるのがアメリカの選手である。
女子10000mでは、この13年間でアジアで行われた3回の世界大会で、いずれもアメリカの選手がメダルを獲得している。今回もアジア(東京)での開催となる。
【2007年大阪世界選手権:女子10000m】
【2008年北京五輪:女子10000m】
大阪世界選手権ではK. ガウチャー、北京五輪ではS. フラナガンがそれぞれ3番目にフィニッシュしたが、どちらも2番目にフィニッシュしたE. アベイレゲッセのドーピングが後に発覚したので、2人ともに後に銀メダルに繰り上がりとなった。
【2015年北京世界選手権:女子10000m】
アメリカ勢が3、4、6位と健闘。
北京五輪はタイムが速かったが、大阪世界選手権と北京世界選手権はスローペースで優勝記録がそこまで速くない。気象条件が今回の東京五輪と近い条件であることが考えられるが、東京五輪でのレースでも同じような展開になることが考えられる(それを崩そうとする選手がいれば話は別)。
よって、自己記録や世界ランキングを東京五輪で覆すアメリカの選手が出てきてもおかしくない。
今年はマラソンの全米選考会ではM. ハドル(北京世界選手権4位、リオ五輪6位 = 30:13.17、北米記録、ロンドン世界選手権8位、ドーハ世界選手権9位)と、E. シッソン(ロンドン世界選手権9位、ドーハ世界選手権10位、自己記録30:49.57)が出場したが、東京五輪の出場権を得ることはできなかった。
よって、この2人は10000mで東京五輪を目指すことになりそうだ(2人はトレーニングパートナーでもある。彼女たちのコーチはプロヴィデンス大のレイ・トレイシー)。
また、北京世界選手権10000m銅メダリストのE. インフェルドが長い故障から復帰し、2月の室内5000mで14:51.91の自己新で走っている。彼女のチームメイトのM. ホール(ドーハ世界選手権8位)は3月7日の全米15kmロード選手権で優勝しており、インフェルドとホール、そして5000mでG. ジョーゲンセン(リオ五輪女子トライアスロン金メダリスト)のBTCトリオは10000mで東京五輪出場を狙ってくるだろう(ジョーゲンセンも2月の室内5000mでは15:10.98の自己新で走っている)。
アメリカには強力な選手が多くいるが、五輪に出場できるのは3枠。そのうち調子の良い選手は東京五輪でメダル争いをしてもおかしくない。今年のトラックの全米選考会の女子10000mの結果は要注目である。
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