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月刊「根本宗子」『今、出来る、精一杯』

体調を崩してしまった。
年甲斐もなく、駒沢公園で縄跳びや缶蹴りにはしゃいでしまったからなのか。
それでも、這うようにして月刊「根本宗子」を観に行った。

我らが伊藤万理華先生の晴れ舞台だ。
9月末の仮面山荘殺人事件は変に舞台の人めいていなくて良かった。

舞台は東京都立川市のスーパーマーケット。
そこで働く人々を描く群像劇だ。

タイトルのとおり「今、出来る、精一杯」に各々が対峙するまでの物語なのだが、その過程には人間性の吐露、醜い部分の提示は避けて通れない。
観ていくうちに、自分が男性であることがだんだんと申し訳なくなってしまった。

要は、男性はとことん決断できないのだ。
そばに居る女性の決断によって、男性はようやく選択めいた行動を起こすことができる。

物語のクライマックス。殺人を犯した清竜人演じる安藤の恋人はな(坂井真紀)は、遺体を片付けながらこう言う。

目の前にいるこの人はなにも選んでくれません。
自分で決めなきゃいけないんです。
正しいことがなんなのかも何が幸せなのかも。
でもこれがいま私にできる精一杯なんです。

この独白のあと、ようやく安藤ははなを抱きしめ、ふたりは通じ合う。

この世の男女が須くこうではないが、これを書き上げた23歳時の根本宗子氏には世界がそう映っていたに違いない。なんたる悲壮の観。

男でいることが申し訳なるのもわかるでしょう。

◆主演と物語の舞台の関係について

本作の主演は、長谷川(根本宗子)と安藤(清竜人)だ。
しかし、二人は物語の舞台であるスーパーマーケットの住人ではない。
普通なら主演のふたりを描くはずだが、舞台上で展開されるはスーパーマーケットの裏側で起きる出来事。
ここに不思議がある。

主演2人の感情の機微はまったく、と言っていいほど描かれずクライマックスで爆発する。
伊藤万理華演じる篠崎も中盤以降で退場し、途中の感情や変化のきっかけは描かれず、クライマックスにおいて悲壮な決心とともに物語へ戻ってくる。

そう。この作品は主演に近いほど感情の動きが分からない。
感情の動きが分からないということは、変化の過程やきっかけが描かれないということであり必然的に描写が少なくなる。いつだって変化は私たちが見ている外側で起きるのだ。

Amazonプライムで配信中の『千鳥の日本ハッピーチャンネル』の大吾の発言を思い出す。

ドラマだから違和感があるけど
後ろにいた人が人生に関わってくるかというとそうではない。
全部が全部絡むわけじゃない

その人が結論にたどり着く過程は誰に見えるわけでないし、見たところで理解されるものでもない。

自分から見えている世界がすべてではないから、
分からないものを分からないまま受け入れてみよう。

初演当時よりも生き辛くなったはずの現在、このメッセージはきっと、より多くの人に届くだろうし、より多くの届くべき人もいるはずだ。


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