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劇場版「鬼滅の刃」無限列車編の微妙だった点

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編を公開日初日、2020年10月16日、TOHOシネマズ日本橋で観た。仕事終わり17時半からのスタートだったが館内は満席だった。

新型コロナウィルスの影響で、ここ最近は一席間隔を開けての鑑賞だったのだが、今月から土日はすべての座席を埋めるようになったようだ。その為、ポップコーン等のフード類をシアター内に持ち込むことができなかったのは、私のようなポップコーン中毒者には少々キツいものがあった。(ドリンクは可)

鬼滅の刃に関してはアニメは全話視聴済み。原作も単行本は全巻購入して部分的には何度も繰り返し読み返している。
原作およびアニメに関しては世間の一般的な評価と同じように私も比較的ポジティブに感じている。もちろん原作の時点で非常に構成やプロットに難があるのではないか、と思える点はあるものの、キャラクターの魅力や見せ方でそれらの粗を覆い隠している良作というのが私の印象だ。

では、今回の劇場版はどうだったか、というと。

アニメ鬼滅の刃の続き、と考えれば良作。
原作漫画の販促作品、と考えれば傑作。

しかし、一つの映画作品としたら駄作。十点満点の内三点くらいのできではないか、というのが私の率直な感想だ。

以下、その理由を記述していく。大いにネタバレを含む内容なので原作を未読、映画を未見の人は注意して欲しい。


①展開が冗長

これはアニメにも感じていたところではあるが、117分の映画になった今回ではそれが顕著だった。私はコロナ前は週一で映画館に通うタイプの人間だったが、ここまで途中退席をする人が多い映画はここ二、三年の内にはなかったと思う。物語の推進力がある映画であればここまで、たとえトイレだとしても離席する人が多いということはないだろう。明らかに物語に『中だるみ』が生じていた。

これはアニメシリーズにも感じていたことだ。
少々脱線をするが、たとえばアニメ一期エピソード6および7。ここは原作の10話から13話までの映像化だ。こう書いていてエピソード5までで原作9話分しか使ってないのかと気がついたが、まあ、序盤はいい。世界観や設定、登場人物などを伝えるために序盤を『忠実』に映像化したいという気持ちは分かる。
しかし、このエピソード6、7というのは三人に分裂する鬼と戦うという話。これを果たして『忠実』とはいえアニメ二話(7の後半は無惨と会うところだから、実質一話半)も使う必要があるのか、とは当時も思っていた。
ここは「禰豆子が初めて鬼と戦う」という物語上の機能があるのは分かる。それ以外では決して面白い話とは思えないし、その役割はひとつあとの手鞠をつく鬼とのバトルにも託せるものだ。はっきりいってテンポが損なわれていると感じた。

では、映画はどうか。
映画は原作第54話から第66話までの12話を『忠実』にアニメ化している。その忠実性は見事なものでカットされている部分は炭治郎のでも下弦の壱のものでもない説明的なナレーション台詞くらいであろうか。
テレビアニメはOPとEDを除くとおおよそ20分ほど。アニメ一話でおおよそ原作二話分を消費していた一期のことを考えると、原作の12話分を117分の映画にしたのはテレビアニメの時の時間配分とほぼ同じといえる。

しかし、テレビアニメと映画は違う。テレビアニメだったら20分を観させる興味の持続性があればいいが、映画は二時間同じ場所に座って画面を見続けさせるための強い物語的な推進力が必要になるのだ。
これが今回の映画には一番足りてない部分だと思う。

映画には明確なターニングポイントが必要になる。『バックトゥザフューチャー』でいうなら「デロリアンで1955年にタイムスリップする」「過去の父と母がキスをして未来が修正される」といった物語が別の方向に大きく転換していくポイントだ。

今回の鬼滅の刃でいうならばいくつかターニングポイントたり得るような点があったとするなば、

・炭治郎が温かかったはずの過去と決別し、夢の中で自決を選ぶ
・下弦の壱を倒し、そこに上弦の参がやってくる

がそれにあたるだろう。

ここにこの映画の冗長性を感じる悪いポイントがあると思う。

いわゆるハリウッド的な映画作りの基本として『三幕構成』というのはよく知られている。物語を二つの『ターニングポイント』で分けて全体を『1:2:1』の時間配分にするという物語の作り方だ。
先ほどの『バックトゥーザフューチャー』などハリウッド的な娯楽大作は大抵このような形になっている。

では劇場版鬼滅はどうか。
正確に時間を計ってはいないが、おおよそ『2:1:1』の時間配分になっていたように感じた。
第一ターニングポイントである「炭治郎の自決」までが非常に長すぎるのだ。いわゆる序破急の考え方でいうと、『序』の部分があまりにも冗長で長すぎるように感じるのである。

「炭治郎の自決」までの一幕目の舞台は「夢の中」である。確かに雪の描写などは美しいが映画的なアクションは存在しない。精神=自己との戦いなのだ。
物語が動き出す前に、主人公は「幸せな過去の思い出との決別」という映画的にはラストに達成するべき精神的な成長を迎えてしまっている。

重ねて、これは原作通りであるのは承知しているが、一本の映画としてみれば主人公の成長は序破急の「序」で行うべきではないと考える。

またこの一幕目が解決に向かう「炭治郎が夢だと気がつく」きっかけにも欠点があると思う。何故なら夢だと気がつくきっかけに納得できる合理的理由付けがないのだ。特別な理由がなく川で自分の心の声に「夢だ、これは夢だ!!」といわれる炭治郎。これはその後の禰豆子が目覚め炭治郎を燃やす、というシーンと順番を入れ替えればよかったのではないかと思うのだが、どうだろうか。

②炎柱に感情移入が出来ない。

この劇場版鬼滅の最重要人物は炎柱の『煉獄杏寿郎』であることは間違いない。というよりもこのストーリーは彼のためだけの物語といってもいいはずだ。

しかし、果たして、この映画だけで彼に感情移入できるだろうか?

アニメではちらりと出てきただけで、ほぼ初登場の人物だ。

週刊連載ならばいい。二ヶ月弱一緒に戦った人物だ。あるいは単行本二巻分付き合った人物。しかし、映画では今日座ってスクリーンに映し出されてほぼ初めましての人物なのだ。

『炎柱の死』で物語を締めるならば、彼の人物的な掘り下げはもっと行わなければならないだろう。
彼が映画上で明確な活躍を見せるシーンはほぼない、といってもいい。第三幕目の『上弦の参』との戦闘シーン以外にそれはほとんど観ることが出来ないのだ。物語の中盤まで弁当を食い、ずっと眠っているだけの人物だ。

映画には『メンター』という役割がある。これは主人公を教え導くものという意味だ。
彼は間違いなくこの立ち位置のキャラクターだろう。スターウォーズの「オビ=ワン」やロードオブザリングの「ガンダルフ」の立ち位置のキャラクターだ。

しかし、炎柱は「メンター」でありながら、オビ=ワンやガンダルフとは違う点がある。
オビ=ワンやガンダルフは主人公に序盤で何かを授け、物語の推進力を高める役割があるが、彼にはそれがない。物語の最終盤まで、彼が主人公を教え導くことをしない。
第三幕で突然現れたバックグラウンドが一切不明のポッと出の敵対者と戦い初めて、そして死ぬ、という展開になっている。

鬼滅の刃という物語においては、彼の戦いが炭治郎たちに影響を与えた、という役割があるのは一定程度分かる(これに関しても私は伊之助や善逸はともかく炭治郎が精神的に挫折することがないのでそれほど彼の成長にどれだけ繋がったのか疑問はあるが)。
一本の映画として観たとき、どうだろうか。
連載漫画ではない、一本の映画のラストとして見たとき炎柱の死までに、彼に感情移入できるとはあまり思えない。

この物語を本当に炎柱の物語にするのであれば、もっと彼の描写を加えるべきだったはずだ。映画の冒頭、アバンタイトルではお館様が鬼殺隊の墓を訪れるという、この映画でほぼ唯一といってもいいオリジナルシーンがある(正確には原作ではこの無限列車編の最後、柱たちが炎柱の死を知る場面の最後にお館様の描写がある)がそこは映画に絡まないお館様ではなく、炎柱の活躍をアバンタイトルにするべきではなかっただろうか。回想シーンでもいい。炎柱という人物の活躍、情報、そういったもので物語を始めるべきだった。

またラストも柱たちが炎柱の死を知るシーンはカットしていいはずだ。煉獄の物語だというならば物語の最後は原作69話、彼の父が息子の死を知り、さらに「身体を大切にして欲しい」という彼の遺言にひとり涙するシーンは必ず必要だったはずだ。
炭治郎関連のエピソードは圧縮、もしくはカットしてもいい。炎柱への感情移入のためにはもっと彼自身の活躍をいれなくてはならない。
台詞だけで語られる「汽車が脱線する時、煉獄さんがいっぱい技を出しててさ」というのも明確に描写するべきだったのではないだろうか。

これは原作の『再現』のみを重視し過ぎてた大きな欠点だと思う。映画としての「面白さ」を大きく削いでいる。

③いろいろ展開が唐突すぎる

これは原作を再現するとなったら仕方ない部分だとは重々承知している。
しかし、どうだろう。第三幕に突然現れて、炎柱を殺して去って行く敵対者、さらに主人公がその戦いにほとんど絡むことがないという。

映画のラストとしては「最悪」ではないだろうか。

『ターミネーター2』でいえば液体金属の敵対者「T‐1000」を倒したあとに、ポッとでの新たなターミネーターが現れて、ジョンコナーやサラコナーとは全く関係ないところでシュワちゃんを殺して去って行くようなものだと思う。「T‐1000」にシュワちゃんを殺されるならばいい。物語の最初から出てくる敵対者だ。しかし、敵対者との対決が終わった後に新たな敵が出てきて、そいつが何者で何のためにここに来てるのか分からないままに戦い、そして去って行くという。一切感情移入できない敵対者に味方が殺されても感動はないだろう。

他にも「無限列車がどこからどこに向かっているのか」「今、夜の何時なのか」「乗っている客というのは普通の人間なのか」一切分からないまま物語は進む。

炭治郎や炎柱はやたら乗客を守ろうとするが、しかし、観客からしたらほぼ描写のない乗客を守る必要性に疑問がわいてくる。

もちろん、炭治郎はそういうあらゆる人を守ろうとするキャラクターだ、というのはこれまでのアニメを見れば分かるだろう。
だが、我々が実際に映像として見る乗客というのはほぼ下弦の壱の甘言に従った敵対者としての乗客しかない。「アイツ死んでいいと思う!!」と伊之助がいうが、ほとんどの観客は同じ気持ちだろう。

もっと一般乗客が乗っている様子や、あるいはあの病気だったが炭治郎の心のキレイさを知って改心した若い男等の描写が必要だったのではないだろうか。もちろん、原作にはそんな描写がないのは重々承知だが、どうにもすべての展開に「なんで?」という疑問符が沸いてしまう。

上弦の参に関しても原作ではその後に無惨の命令で柱を殺しにきたということが分かるのだが、映画ではない。全体的に敵対者に関しては描写不足だ。無惨が下弦の壱が失敗するだろうことを確信しており、上弦の参を無限列車に向かわせる描写を入れるだけでも「なんで?」感は幾分減ったのではないだろうか

・まとめ

ここまでイマイチだと思った点をあげた。
まとめると、

炭治郎の描写をコンパクトにし、テンポアップを図る。そして、炎柱と敵対者の描写をオリジナルでもいいから増やして感情移入できるようにするべき。

というのが私の率直な感想だ。

しかし、これは私がこれを一本の映画作品で見た場合だ。
テレビアニメからつながり、いつ始めるか分からないアニメ第二期へのつなぎ、として考えたならばひとつの映像作品として充分以上の満足感は得られるだろう。Ufotableによる炎柱の戦闘シーンは圧巻された。

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