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女性器名称を叫べないこんな世の中じゃ、Poison

おっぱい、おっぱい、おっぱい。
まいにち、私はTwitterで「おっぱい」と呟いている。どんなに忙しい日でも、どんなに苦しい時でも。
こんな生きづらい世界でもそれさえ呟けば、なんとか1日を乗り越えられるから。

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しかし、そんな私であっても気軽には気軽には呟けない、そんな言葉がある。
それが【女性器の名称】だ。
なぜだろう、自分でも不思議。『これ』を呟こうとすると自分の脳内で何かがブレーキをかけるのだ。

やめろ。
その言葉はダメだ。
言い換えろ。
危険だ。

心の中に住む善良なる天使が私にそんな言葉を囁きかける。

では【男性器の名称】の場合はどうだろうか。
『おちんこ』
言える。呟ける。

世の中には女がいて、そして男がいる。
男と女は単なる対照ではないが、対等な存在であるはずである。
であるならば男性器も女性器もその【名称】は共に気軽に呟けるものになっていなくてはいけないはずである。

この【男性器名称】は気軽に口に出せても、【女性器名称】は気軽に呟けないという事実。それ自体は感覚的には理解できる。私が【女性器名称】を特定の4文字で入力しようとするときに照れとも恥ずかしいとも違う、奇妙な感覚が胸の中をざわつかせるのだ。

これは実に不思議なことだ。「犬」とは言えても「猫」とは言えない。「ご飯」と言えても「パン」とは言えない。「Chage」とは言えても「Aska」とは言えない。そんなことが他にあろうか。

「おちんちん」と言えるのならば、それに対する【女性器名称】も普通に言えるはずである。
しかし、現状はそうはなっていない。これはなんともおかしな事態だ。

最近、巷では『NKODICE』というゲームが流行っていたことは知っていた。しかし、私は生まれと育ちが大変よろしいのでこういった下品なゲームには積極的に触れることはしてこなかった。
加えてVtuberに関しても明るくないので、上記の炎上事件のことはゲーム製作者様の書かれた該当記事を読むまで知らなかった。

なんでも『NKODICE』とは「う・ま・ち・ん・こ・お」の6文字が出るサイコロを三つ振り特定のワードを作るちんちろりん型のゲームだという。

上記の炎上事件の経緯は、そのゲームを元ネタにVtuberが作成した二次創作に本家の作者がTwitterで苦言を呈したことがきっかけだ。

その二次創作のダイスではなんと「ま」が出ない仕様になっていたというのだ。

『ま』が無い? それはそう。『NKODICE』が配信出来ないからマイルドにしたものであり、最も危険な『ま』を無くした。正解。というかさっき「『ま』を無くしました」と言っていた気もする、目の当たりにして初めて気づく。
同時に自分の中で猛烈な違和感が湧き上がってきた。

本家作者はこのように記事の中で自身の覚えた違和感について語っている。

「ま」の文字を消すことによって事務所に所属しているVtuberで「問題」なく配信ができるというのだ。Vtuberにとって「ま」をなくすことが当該ゲームを配信する条件になっているという。

一体、何故、「ま」をなくすことで配信の可否が決まるのだろうか。

これは明確な『女性器差別』ではなかろうか。

私は憤慨に堪えない。

おまんじゅう。


女性器は「実用性」に偏重している。
これが世間が女性器を暗幕の内に隠そうとしている理由だ。

ここでいう「実用性」の反対は「アソビ」だ。女性器には「アソビ」が足りない。

女性器の「実用性」とは何か?
言わずもがな、それは生殖である。

男と女。個と個が、性欲という起爆剤をもって、【全】へと辿り着こうとする行為が生殖器の実用的な役割だ。
そのために時に男性器は充血し、女性器は血を零す。
それも全て実用のためだ。
その点では男性器も女性器も求められている役割において違いなどありはしない。
「個」である人間が「他」を媒介して「全」へとつながるための道具。触媒。それがペニスでありヴァギナだ。

しかし、現状、男性器にはあって、女性器にはないものがある。
それが「アソビ」だ。

ペニスでは笑えても、ヴァギナでは笑えない。

これが女性器名称を口に出すことを躊躇わせる原因だ。


クレヨンしんちゃんで主人公野原しんのすけが股間を出して「ゾウさん」と揺らすギャグは、一昔前のアニメではよく見かけた光景だ。面白い。

しかし、どうだろうか。例えば女子向けのアニメで主人公の女の子が急に股を開いて「コヤスガイ!!」とでも叫んで見たら(このギャグに面白さの要素があるかはおいておくとして)面白さよりも前に何かいけないものを見てしまったような感覚に陥るだろう。

なぜだろうか、どちらも下品なはずなのに、片方は笑えて、片方は笑えないどころか引いてしまうのは。

それが「アソビ」の有無である。

男性器にはリボンを結ぶことができる。女性器には花を挿すことができる。
この本来の「実用性」とは関係のない部分に我々は「アソビ」を見出すことができるのだ。
これは何も生殖器だけに当てはまることではない。

竹が音を鳴らして鳥獣を追い払うという本来の実用性を超えて、ししおどしには風流という「アソビ」があるように。
子供が夜勝手に外へ出歩かないことを教えるという実用性を超えて、怪談にはエンターティンメントとしての「アソビ」があるように。

我々は男性器には「アソビ」を見出している。
クレヨンしんちゃんであったり、とにかく明るい安村であったり。

しかし、我々はまだ女性器に「アソビ」を見出していない。

いや、頑なにそこから目を背け、むしろ「アソビ」の要素を隠そうと必死なのだ。

これは女性差別に他ならない。


件の騒動で「ま」を排除するということは、つまり、女性器に「実用性」以上の意味を与えないようにする勢力に加担するということである。

この勢力とはまさに男尊女卑の男根至上主義者たちのことである。

「ま」から始まる【女性器名称】をひた隠しにひた隠すということは、その言葉の持つ意味に「実用性」=「生殖行為」以外の価値を認めない、という見方を認めることを意味する。

「ち」から始まる【男性器名称】をも認めないというのならスジが通る(注:ここでいうスジとは女性器のことを示す隠語ではない)。

しかし、「ち」の入ったサイコロを認めて、「ま」の入ったサイコロを認めないというのは、つまりはつまり、そういうことなのだ。

両方認める、もしくはどちらも認めない。

これがスジの通った考え方というものだ。


もしあなたが女性器を持っているのならば、あなたは男性器を持たない。

もし私が男性器を持っているならば、私は女性器を持たない。

通常、どちらか片方を持っていれば、もう片方を自由にはできない。

実に、これ以上ないくらいに対等な関係だ。

生殖器は常にその実用性としての役割においては他者の性器の存在を前提にしている。一つではそれは生殖器ではないのだ。

もしこの世から全ての性器が消え失せても、男も女もその股ぐらはのっぺりとしても凹も凸もなかったとしたら。そんな中、私の股間にだけはペニスが残っていたとしてそれは果たして生殖器と言えるだろうか。広瀬アリスちゃんの股間にだけヴァギナが残っていたとしてそれは果たして生殖器と呼べるだろうか。

他者の性器が消失した世界においては、最後のペニス(ヴァギナ)はもはやその実用性を失う。そしてそこで私たちは見つけるのだ。その棒に、その穴に「アソビ」を。

おもむろに紐をくくりつけたり、おもむろにタンポポを差し込んでみたり。

おそらくそのアソビをして私たちは腹が捩れるほどに笑うのだ。
花瓶の代わりにでもするしかないような、そんな実用性のないモノを指して笑う。


アソビのない世界は実に退屈だ。

世の中、実用性を求めすぎると疲れる。

モノにはそれ自体が求められる実用性の他に、我々が新たな意味を見つけ出すためのアソビが必要だ。

男性器にはそのアソビがある。

女性器にもアソビを持たせてみよう。

そうした時初めて我々は真の意味で男根至上主義の呪縛から抜け出すことができるのだ。

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