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ルックバックの改変に関して思うこと 〜絶望と息苦しさ〜

「〇〇は〇〇に対する差別を助長するから云々」論は全く取り合うべき理論ではないとまずは断言する。

なぜなら、この論は「〇〇」の中に何を代入したとしても成り立ってしまうからである。個々人の「感情」「情緒」次第でどんな作品にでも使用できてしまう暴論に過ぎない。この論を用いるということは、そもそも、議論•討論の場に立つ気もなく、場外から棍棒で殴りつけるようなものである。詭弁といってもいい。和解や妥協をしようという気のない時に用いられる「戦法」である。

話し合いの場に立つ気もなく、火を付ける行為は暴力と同じだ。

屈していいはずがない。

というのもだ。

少し前に随分と話題になっていた漫画『ルックバック』内の一部表現が修正された。「作中の描写が偏見や差別の助長つながる」との指摘があったためだという。

以下は、この騒動についての概要をある程度共有できているものとして書いていく。私の拙い文章を読んでくださる貴重な読者の方々に、お手を煩わせるのは大変恐縮の極みではあるが、もし、この騒動についてよく知らない方はTwitter等でサーチしてから読んで欲しい。

「差別」と「偏見」

では、まず、

私にはこの漫画(修正前)が差別や偏見を助長するようには思えないし、百歩譲って、仮に差別や偏見を助長したとして、それを理由に作品の修正を迫るのは悪だと考える。

こういうとおそらく「差別を肯定するなんて、お前は差別主義者だ!!」という風に思う人がいることだろうが、これは差別を肯定しているのでは決してない。

「差別を撲滅する」という、一見すると正論に思える、そんな武器を掲げて表現の自由を破壊することを助長するような考え方を否定したいのだ。

「差別なき世界」だとか「偏見なき社会」だとか。実に耳に心地いい「良さげ」なフレーズだと思う。

しかし、冷戦後に生きる我々は「平等な世界」が実のところディストピアだったという事実を知っているはずだ。「良さげ」なポエムには慎重になる必要がある。

果たして「差別なき世界」「偏見なき社会」が理想かという問題だ。

私はここ数年のTwitter等で見かけるいわゆる「表現規制派」の過激な行動が、この「差別」などの言葉を実に空虚なポエムへと貶めているように思う。鉤括弧付きでほんの「些細な」ことを「差別」だと叫ぶことによって、その「差別」という言葉を軽いものにしてしまった。

差別とはそもそも何か。

ブリタニカ国際大百科によると、

特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制することをさす

とされている。その上で具体例として「ナチス政権の反ユダヤ主義」「関東大震災の朝鮮人虐殺」「アパルトヘイト」などがあげられている。

つまり本来、「差別」という言葉は、国家や社会、一定上の大きさとパワーを持つコミュニティが、弱い・小さい集団個人に対して強制する不利益な取り扱いのこと、を指していたはずである。

しかし、近年の日本国内のインターネット上では「宇崎ちゃん献血ポスター」や「ラブライブ西浦みかんポスター」が女性に対して差別的だとして炎上した。

国家・社会からの不当な扱いを「差別」とするのならば、近年のインターネット界隈で「差別」とされていることは実にスケールの小さいことだ。

私は少なくとも、個人が抱える「偏見」と社会による「差別」は違うものだと認識しなくてはいけないと考える。

我々が人間である限り「対国家的な権利」として「人権」を持つ。それはこの世に生まれ落ちた時点で、どんな国にあっても、男でも女でも、黒人でも白人でも、キリスト教とでもイスラム教徒でも仏教徒でも、等しく。

これを侵害されることこそが「差別」であると私は思う。ホローコストやアパルトヘイト、民族浄化。これは明らかな歴史上の差別である。

しかし、我々は成長の過程でさまざまな経験をする。その中で生まれるのが「偏見」だ。

「オタクはキモい」
「女の話は長い」
「ハゲは性欲が強い」
「ロシア人は四六時中ウォッカを飲んでいる」
「イギリスの飯は不味い」

こういう「偏見」は確かに我々の普段の日常あるいは漫画や小説を読んで身につけるものだ。

ではこういう偏見を植え付ける漫画や小説は「悪」か?

いや、私はそうではないと考える。

なぜなら私はそもそもこういった「偏見」が「悪」だとは考えないからだ。

イマニュエル・カントのいうように、我々は「物自体」つまりは自分の外にあるモノそのものを直接認識することなどできない。必ず「心」を通してモノを認識するのだ。である以上、我々は「偏見」をなくすことなどできない。それまでの経験や知識を全て無かったことにはできない。

真っ赤になった鉄を見て「すごく熱そう」と思うのは「偏見」だ。もしかしたら塗料で赤く塗っているだけかもしれないのに。けど、我々はその「偏見」なしに物事を判断することはできない。

「オタクはキモい」と思ってしまう「偏見」も同じだ。

その人のこれまでの歩みのどこかでそのような「偏見」を持つことになった理由があるはずなのだ。

では、そんな「偏見」を持つことは「悪」か? そんなことはない。

「悪」なのはその「偏見」を元にして「差別的な振る舞い」をしてしまうことである。

我々は理性的な生き物である。普段、日常で我々はさまざまな「偏見」を乗り越えながら生活しているはずだ。「偏見」とは判断の一材料である。決して人間らしい生活と切り離すことなどできないのだ。

その「偏見」の暴走が本来の意味の「差別」であり、

それを乗り越える手段が「理性」であり「道徳」であり、あるいは「法」かもしれない。

『ルックバック』について

当該漫画の中には「統合失調症」の「差別」を助長する表現があったということで今回修正された。

作品が助長した偏見とはなんだろうか?

「統合失調症の人間は殺人を犯すようなやつだ」という偏見だろうか?

もし、そのような偏見を植え付けるような作品だったとしても、私は、修正の必要なんて一ミリもないと考える。

なぜなら、繰り返すように「偏見」それ自体は「悪」ではない。さらに言えば作品は作者の手を離れた時点でどう受け取るか、その全てが受け手の認識が頼りになる。「統合失調者の人間は殺人を犯すようなやつだ」という偏見が仮に助長されたのだとしたら、その「責任」は認識の主体、漫画で言えば読者側にある。

端的に言えば、作品をどう解釈しようが勝手な時点で「差別や偏見を助長する」ことに対する「責任」が作品の制作者側にあろうはずがない。

ワーグナーの楽曲が反ユダヤ的に解釈されることの「責任」が、ワーグナー自身にあろうはずがないのと同じだ。

現に私は「統合失調症」のことを何も知らない。逆に言えばそういった「偏見」すら持っていなかった。だから、この漫画を初めて読んだときに、当該箇所で犯人のことを「統合失調症」だと思いもしなかった。「偏見」のない人間の目からは「偏見」を助長するようにはとてもではないが感じない。

得てしてそういうものだと思う。「差別」だ「偏見」だと叫ぶ行為は、おおよそ自分の中にある「差別」や「偏見」が露呈することを恐れるための自己弁護なのだ、とこれは私の「偏見」。

生まれた時から真っ暗闇の中で育った子供が、初めて見た他者の顔が鬼だったとして、その子供は怖がるだろうか。私は怖がらないと思う。なぜならその子には経験がないからだ。他との比較ができないその子供には「偏見」が生まれる経験がない。

私は今回の騒動で統合失調症に関して、幾分か、知ってしまった。

統合失調症について知らなかった私は今まで「そういう人たち」のことを「そういう人たち」だと認識してきたが、
今後、おそらく私は「そういう人たち」のことを見て「あ、ああいう人たちのことを統合失調症って言うんだ」と思うだろう。

これこそが「偏見」である。

そして、私が「そう言う人たち」に対して「差別的」な振る舞いをするかどうかは、その「偏見」ではなく、理性や道徳の問題だ。

作品を受けて、どのように感じるのかは全くの個々人の自由であることは間違いない。自分がモデルだと思おうが、けしからん作品だと思うが自由だ。

自身の「責任」において批判するのも自由だ。当然の権利だ。

だが、自分の意見とは違うことを取り上げ、パワーを持って制作者の口を塞ごうとするあらゆる行為は絶対にあってはならない。

創作物は制作者の「責任」においてあらゆる表現がその権利として保護されるべきモノなはずだ。その「責任」とは批判・反論を受ける「責任」であって、不当な暴力(これは集団による圧力も当然に含む)によって口を塞がれることまでも受け入れなければいけないわけではない。発表の場は守られるべきだし、ましてや作品内の表現を変えさせるなどあってはならない。

反論は公の討議によってなされるべきだ。

今回で言えば反対陣営は集英社に訴えるのではなく、自己の意見をまとめ公に発表する行為によって「差別や偏見」に対抗するのが筋だったはずだ。

その権利は誰にでもある。

だが、他者の思想や言論を封殺する権利など誰にもあろうはずはない。実に卑劣な行為だ。

究極的には、私はそれが例え明らかに差別を目的にした作品であったとしても、発表の自由は守られるべきだと思う。例えば『表現の不自由展』で話題になった昭和天皇に対するあまりにも不敬な作品であったとしてもだ。

それへの反論はパワーを以てではなく、言論や作品を以って行われるべきなのだから。

どんな描写も嫌だと思う権利も自由もある。

しかし、それを修正させる権利も自由もありはしないし、あってはいけない。

表現規制派の問題点

私は特定の表現を規制するという行為には絶対に反対する。あらゆる表現はどれだけ反社会的なものであったとしても規制されるべきではない。

表現規制派の人間が実に傲慢なのは、自分の価値観が普遍的なモノだと信じ切っている点だ。

2021年現在の価値観が未来永劫絶対に正しいモノだと誰が言い切れるのだろうか。その価値観を基準にこれがいい、あれがダメ、と判断することは実に烏滸がましい。

ソクラテスの価値観は当時のギリシア社会で異端とされ処刑された。
ガリレオの価値観は当時のキリスト教社会で異端とされ終身刑となった。

価値観なんていうものは時代によって様々に移り変わる。当然のことだ。100年前の常識が今の非常識でもあり、今正しいとされていることが100年後に正しいとは限らない。

表現を規制しようとしている人たちはそれがわかっていない。

「偏見を助長する」といって作品に火を付ける行為は、信じるものが違うからとヤン・フスを火刑に処した中世の人間と何が違おうか。

「気に入らない」「表現が間違っている」「差別的だ」「狼狽える」

そういった自分の思いを表現するのは、それも、当然守られるべき権利だ。

しかし、インターネットの発達に伴い、我々はあまりにも容易に火のないところに煙を立てれるようになってしまった。今回のように出版社に圧力をかけることも前よりはずっと簡単なことだ。

これは「偏見」だが、

おそらく、表現を規制したいという人たちは漫画や小説、映画との創作物に触れてこなかった人たちなのだろう。自分の好きなものを好きなだけ食べる、カレーが好きだからと毎日夕飯はカレーを作ってくれと母親にねだる小学生みたいな人たちなのだろう。

そういう人たちはカレーが禁止されるまで目覚めない。

カレーが禁止されることがないとたかを括っているのだ。

「〇〇は差別的だから〜」などという曖昧な基準で表現を規制すれば、やってくるのは基準も何もないあらゆる表現が圧力によって潰されあうディストピアだ。

私は下品な漫画は嫌いだ。だからと言ってコロコロコミックを廃刊にしろなどとは言わない。なぜならそれを言い出せば「ではお前の購読しているコミックアンリアルは下品ではないのか」と言われてしまうからである。そして下品の基準など誰がどう定めることもできないのは明白だ。

故に、私はあらゆる表現の規制に反対する。

正直、私は『チェンソーマン』が好きではないが、それでも、藤本タツキ先生の表現の自由を侵害することを肯定する人たちのことは許せないし、

また、これによって他の作品にも同様に「規制しろ!!」の声が上がってしまうのではないかということを深く懸念するものである。

ああ、全く息苦しい世の中だぜ。

と、私の様々な「偏見」を暴露したところで一旦筆を置く。


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