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新しいオペレーティングシステム

科学はHow、どのように?を基本考えてきた。
宇宙はどのように進化した?人類はどのように進化した?社会は?
どのように?Howを考えてきた。
つまり、あるものを分析する、どういう構成なのか、細かくしていく。

全体は個の集まりで出来ていて、個が分かると全体も分かるというような考え方。
だから、個を知って全体を知りたい、全体をコントロールできるのでは?という希望を感じるんだろう。

そして、Why、なぜ?を考えることは。
なぜ宇宙はあるのか?なぜ人類がいるのか?社会は?
あるとか、いるとか、存在の理由だ。
そもそもの存在の理由を考える。

なぜ?という理由。
存在の理由を知ることでどんな希望を感じるんだろう。

それは例えば、Howの時のように現状をコントロールする為のものではない。
現状は現状のまま、その存在の理由、本質を知るのだ。

つまり「知」を「智」に変えるようなもの。

智は「さとり」とも読む。悟りを得たいのかも知れない。
悟りを求めることは、具体的な体や形ではなく、本質論。

そういうことを個人のレベルで求める時代になっているのだと思う。

ではなぜ、悟りを求める時代になってきているのか?

僕が思う理由の一つは最先端の科学。
現代物理学が扱っている世界観が理由だ。

そもそも科学はHowを追求し、細かく細かく、分割し分析し、その本性を見極めようと試みた。
そして、物質の最小単位を突き止めた。
それが素粒子。
しかしその素粒子は観測者問題などとセットで説明され、まだ完全には現象としてコンセンサスがとれていない状態で存在している。
それが実在論と観念論。
世界は観測しようがしまいが、あるという考え方と、観測するからあるという考え方。
そもそも、物質の存在の根底が揺らいでいる訳だ。

つまりHowを追求しても、結局のところは今は分からない。
分からないということが分かった。

でもこれは、こういった素粒子論の登場する前、古典的な物理学では絶対空間や絶対時間があると考えられていた。
この時代にはそういった存在の疑いすら無かったとのではと思う。

しかし、分かったと思っていた世界を分かっていなかったと気付いてしまった。

それがアインシュタインの相対性理論に端を発し、こういった素粒子、量子論の登場、そして現在と続く流れとして起きてきて、絶対的な時間、空間は無いというのが科学的には、今や常識になりつつある。

では時間とは何か?空間とは何か?

そこから考えるしかない。
もう、古典的な世界観はとっくに破られていて、新しい世界を見ている。
少なくとも科学はそうだ。

だからこそ、この延長に私たちの日常、解釈、理解も併せていかないと、世界観が合わなくなる。
相対性理論もただの思想ではなく、実用的にGPSの誤差の計算で使われている。量子論も量子コンピューターが実用機器として既に販売されているような時代。

科学は既に相対的な時空、量子的な世界を根底に技術を発展させて世界を構築しているのに対して、わたしたちの生活、日常はどうだろう?
まだまだ、古典物理学の世界に取り残されていると感じる。
明らかに遅れている。

そこで、Why、なぜを考えていくことが殊更、求められる。
もう、問いを見つけないと、問いを作っていかないと、技術の世界、コンピュータの世界に飲み込まれる。
いや、もう飲み込まれている。知らぬ間に。

日常でもコンピュータに使われているような、感覚になることはよくあると思う。AIが人間の行動や人間を評価するなんてことは実際に始まっている。
例えば、AIによる歌唱判定なんてのもエンターテインメント界では導入されている。
どのように?というような思考に陥れば、例えば歌ではどのように歌うか?という問いが立つ。
この基準やものさしはAIが過去からの膨大なデータからの最適値を導き出し、合理的な指標をはじき出す。その基準に合うか合わないかのボリュームの度合いが歌唱力となる。
こういった、客観データからの指標の割り出しはAIが得意とする分野。
一個人の主観ではなく、膨大なデータが根拠にあるので、AIを根拠にジャッジをする側は公平性、合理性という後ろ盾がある。
今後こういった、AIによる判定、審査は幅広く社会を覆うことが予想される。そして、人間はそのアルゴリズムを追っかけ、右往左往する。どうすれば、AIに評価されるか?Howなわけだ。

これに対抗するには、歌うことで言えば、どう歌うかではない。

なぜ歌うか?なぜ歌なのか?だ。

それがこれからの時代、わたしたちに求められる思考OS。

新しいオペレーティングシステム。

既存のオペレーティングの総体はコンピュータがやってしまうのだ。
最も最適化された状態で。

そうなると、新しいオペレーティングは何をする?
もう、過去のデータ集積ではない。
終わったことを集めて分析するでもない。

それ以外のことをオペレーティングする他、人間に求められていることは無いのではないかと思う。

その一つが「何々とは?」という問いを作る。
おそらくsiriに「僕にとって歌とは?」と聞いても「本人に聞いて下さい」と返ってくるだろう。
「歌とは?」と聞いても「声を使い音を鳴らし、音楽的旋律をつけることです」というような答えしか返ってこないだろう。

どんな質問も、過去のデータから引っ張ってくることしか知らないのだ。
どのような(How)ものであるかは、信じられない位の大量の知識を持っているAI。
しかし、なぜ(Why)あるのか?何々とは?に関しては、きっと穴だらけだ。

わたしたちはここに人類の存在の意義を感じるしかないのだと思う。
コンピュータの進化が結果的に人間の本質をあぶりだしてくれた。
人間の脳機能を外に出して、眺めた結果、見えてきた、人間の可能性、本質。

本質に立ち返ること。

それが新しい人類の創造性を開いていく道筋となる。

どうして?なぜ?
子どものような心でもう一度世界を眺めて見よう。