脱依存社会

僕は先週から、オンラインの朝活というものに参加している。
朝6時からzoomで集まりそれぞれがアウトプットをする。
朝の30分間、そういう時間を作って一日をスタートする。
ファシリテーターさんが、その都度アドバイスをくれたり、考えるきっかけを作ってくれる。
朝起きてボーとしている頭が急激に冴えてくる。
ホント素晴らしい機会だ。
ネットで場所を越えた繋がりが広がり始め、同じような考えの人たちと繋がりやすくなった。
朝活のおかげで毎日新鮮な気持ちで過ごすことが出来ている。

この集まりには参加費が必要。すごくリーズナブルで申し訳ないくらいだけど、一応お金を払って参加している。

これはどういうことかというと、自分に習慣を身につけさせるため、お金を払っているということだ。
ある意味、制限を買っている。もちろんそこから得られる知識やネットワークも大きな魅力だが、初めのスタートは「制限」だ。

ひとりの意志では早起きが出来ない、アウトプットが出来ない。
だから早起きしなければならない、アウトプットしなければならないという制限をお金を払い買うのだ。
ダイエットの為にジムへ通うことも似ている。
ジムへいけば、運動をしなければならないという制限がある。それを買う。
そして、それを課していく。

そういったことが、習慣になり、制限でなくなるのが理想。
無意識にそれをやるようになれば、負荷は無くなる。
そして、それが楽しみ、喜びに変われば更に良い。

すこし立ち止まって考えると、こういうことに必要性を感じるということは何か大きな力があったはずだ。

それは依存させる力だ。

今、身につけたい習慣の反対側に、悪しき習慣というものがあるから、その習慣を塗り替えたいのだ。
何かに依存させられていることに気が付いたから出てきた考えだ。

気が付けば、身の回りには依存させるものが溢れている。
それは安く、簡単に誰でも手に入れることが出来る。

食べ物、テレビ、ネット・・・どれも簡単。コンビニに行けば、おいしいスイーツだって食べれる、テレビからは面白い番組が、そして極めつけはネット。一生かかっても見切れないほどのコンテンツで溢れている。
これらに浸ってしまう危険性が大いにある。

そんな依存社会に生きているということを再度認識しないといけない。

そういった危機感から、脱依存するための方法や機会、コミュニティーが作られているんだと思う。

世の中は巧妙になった。
依存の魔の手は、気づかぬうちに、知らぬ間に私たちを取り巻く。
インターネットにつながったとき、スマートフォンを持ち始めた時、まさかこんな悩みが出てくるとは思わなかった。
提供者も意図的にだれかを依存させるつもりはないだろうが、しくみや環境は依存を生む。
現代の資本主義社会がそもそも、人の欲望をエネルギーとしたしくみで動いている以上、依存したいという欲望も肯定される。

今こうして、依存から脱却して、自らの意志で動きたいという人が増えてきた。
僕らはもう欲望だけで生きているわけではない。

次のステージに進まなくてはいけない。

脱依存社会、その先にある新しい未来。

朝日の中から生まれてくる思考にはそのエッセンスが多く含まれている。