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『すずめの戸締まり』を観てきました

先日、『すずめの戸締まり』を映画館で観てきました。

新海誠監督の最新作。
大ヒットしているようですね。

新海誠監督のここ最近の作品のテーマには日本神話の内容が根底にある気がします。

それを意識して登場人物の名前も付けられているようです。

今回の主人公、岩戸鈴芽、宗像草太、この二人からも神話の世界が想像されますね。

岩戸鈴芽・・・岩戸と言えば、天の岩戸、アマテラスが岩戸にお隠れになったという神話。そして鈴芽はアメノウズメでしょう。アマテラスを岩戸から出すために、歌い踊った女神。
岩戸鈴芽からはアマテラスの天の岩戸開き神話が想像されます。

宗像草太・・・宗像といえば福岡の宗像大社。宗像大社の御祭神は宗像三女神。この三女神はスサノオとアマテラスの誓約(うけい)によってスサノオから生まれた神様です。

ここのところからみても、日本神話を強く意識していることが伺えますね。

今回の映画はファンタジー的要素も多分にありますが、現実的な内容としては東日本大震災のことが描かれています。

近年は自然災害の被害も全国的に多くなっていて、その備えの意識も高まっています。
こういった災害に対処することは必要ですが、そもそもなぜこのような災害が増えているのか?これは私たちの人間の在り方と関係しているのではないか?そのようなことを考えるきっかけにもなりました。

印象的だったのは映画のポスターにも描かれている扉。
劇中でも扉を開くシーンが出てきますが、扉を開けると前だった世界が後ろに反転するような場面がありました。

扉を開けることにより、閉められていく世界。
開けると閉めるが表と裏の関係で描かれているようでした。

表と裏の関係で、思い浮かんのは神社の本殿に置かれている鏡。
鏡の前に立つと、目の前には後ろの世界が映し出されます。
ある意味鏡は前と後ろを反転させる装置です。

鈴芽がアメノウズメなら、本来は開ける存在。岩戸を開く存在。

しかし、今回は鈴芽の戸締まり。
ここにも何だか意図された反転がある気がします。

閉めることと、開けることを反転させて考える。

鈴芽や草太が閉めてるのは何か・・・?
彼らが閉めることによって開かれていくのは何か・・・?

そう言った視点で映画を見るとまた、違った解釈もできてきそうな気がします。

反転というのは、ここ最近の僕のテーマでもあります。
そのことは書籍にも書きました。

今まで、見えない世界としてわたしたちが共通認識していたものは、心や精神だったと思います。
反対に見える世界はこの物質の世界。

見えない世界を大事にしようと、様々な教えを学んできました。
その役割を担っていたのは宗教でした。
それはつまり言葉で構築される世界です。
この「言葉」で良い悪い、善悪の観念を拵え、人間の世界を作ってきました。

そこには無数の信念体系が組み上がっています。無意識にたくさんの。
でも、この見えない世界は実はどこにも存在していない世界。
実体としては無いに等しい世界です。

では、あるのは・・・?
それは、今目の前に広がる世界。

実はこの世界が本当にわたしたちが存在している場所。
心や精神はここにあります。ここにあるというか、それが精神そのもの。

心は見えないのではなく、今ここで見えています。

映画では後ろ戸を閉めるという表現がありました。
後ろ戸を閉めることによって、開くのはどこか?
それが前なのです。

後ろに閉ざされてしまった世界を解放していくというテーマだと受け止めました。
鈴芽が戸締まりをすることによって解放しているのは、わたしたちの精神の場なのでは。

精神の場を封印し、それを物質で覆ったのが今までの文明の在り方。
その在り方をもう終わりにしましょう!というメッセージに繋げてみました。
そして、天変地異が起きる原因もここにあるのでは…?

全てを物質で覆う世界は、見られた世界を基礎に作り上げた世界です。
それはまるで鏡の世界。他人に見られている像を想像して映し出しているのだから。

劇中に現世(うつしよ)というワードも出てきましたが、現世は映し世でもあります。
わたしたちが現実と思っている世界は実は映している世界・・・では常世(とこよ)は?
それは見ている世界です。

見ている世界と見られている世界は全く別物。そしてそれは表と裏。
表と裏をひっくり返す時期に来ているのでは無いでしょうか?

見られている世界は常に駄々開きでどんどん、わたしたちの世界を覆い続けます。
本来のわたしたちの生の世界を。

それを閉じていかなければいけないのです。

見られている世界、鏡の世界を閉じれば、自然に見ている世界が開かれます。
見ている世界には一人一人の精神が息づいています。
それは言葉を超えて、時間を超えて。

その世界を開いていく。

これからどんどんこの扉を開く人が増えてきます。

常世と現世を自由自在に行ったり来たりする存在。

それは何も特別な能力がある人がすることではなく、誰でもがやれること。

「行ってきます」と言って開けた扉の先。

それは一歩を踏み出した人にしか見えない世界です。
ここにわたしたちの本当に存在の場があります。

さあ、一緒に新しい世界を見ていきましょう。