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車社会と地域創生

今、自民党総裁選に向けて、三人の候補者が注目されている。
三人とも、地域創生の重要さということは前面にだしている。
政治家が地域創生を重要課題として取り上げるのは珍しいことではなくなった。

地方にUターンして感じる、都市と地方の違いNo.1は僕にとっては移動手段。
主な移動が電車か車かの違い。
これは大きい。
東京で電車通勤をしていた時は、毎日おびただしい数の人とすれ違っていた。朝の電車はだいたい満員電車。視界に入ってくる人たちが多く、そこから流行りの服装や髪型、雰囲気を実際に感じていた。そうして自分自身も見られているという意識が高まっていた。日々、目にする人たち、街並みから文化を感じ、時代を感じていたとも言える。都市文化の中で生きている感覚。

地方では車の無い生活はほぼ無理だ。通勤も買い物も移動はほとんど車。あるいて行けるコンビニでさえ車で行くのが当たり前になってくる。
家の車庫から車を走らせ、目的地の場所まで行く。地方は土地が余っているから、ほとんど場所には駐車場がある。車から降りてその目的地へ歩く距離もほとんど無い。

移動を車で行う。

車での移動、電車での移動、移動には違いない。
でも、経験上大きな違いがある。
それは過ぎていく景色の見え方だ。
車は運転をするので、正面を向いている。
電車は乗っているだけなので、ずっと正面をみているのは運転手だけ。車窓の景色は横に横に移動していく。
車の運転をしていると、不思議な感覚になることがある。
アクセルを踏んでいる感覚も段々慣れてくると、自分は止まっていて景色が、世界がどんどん後ろに流れていく感じがするのだ。
自分は動いていない。
電車から外の景色を見ている時は、横で見ているので自分が移動している、どこかからどこかへ移動をしている実感がすごく湧く。場所の意識が強くなると言ったらいいかな。移動をした実感が湧く。
車の移動は、視界の奥へ奥へ移動をしている。視界が動いている感覚。
この車時間というのが、僕にとっては都市生活ではなかった時間であり、空間の感覚だ。
そして、感じることは移動時に場所の意識が薄くなっているということ。
家⇒車⇒会社。家⇒車⇒お店。家から車で何分かかるかで移動範囲が決まる。
車に乗ってしまえば、その間の場所は車で通過する場所でしかない。
車の移動中は外を移動しているはずだけど、感覚としては「中」なのだ。
家という家庭の空間、車という個人の空間、そして会社という社会の空間。最後にやっと社会が出てくる。
車移動中通過する道路は車同士で共有するスペースなので他の人から受ける影響などもほとんどない。

こういったことは地域創生や地域で暮らすということに大きな影響を与えていると思う。
つまり、家、会社、学校そういった場所では人と人とが触れ合い、場所や文化が作られていく。
しかし、それ以外の場所、移動でしか通らない場所、道などは意識の外に追いやられてしまう。普段は車でしか通らないのだから。ほとんどの人はここを見ていない。

このある意味、スカスカの場所をどう考えるのか。
過疎化が進みこういった場所は増えている。
そこを車で移動するので、ますます無いものとされる。

今朝、散歩をしていて思った。
子供の頃は、この街も生き生きしていたし、街の文化もあった。
歩いて、やっと気が付く街の鼓動がある。そこに愛着も出てくる。

地方に住む僕らは敢えて、車から降りてみる必要があるのだと思う。
むき出しの地域を肌で感じなければいけない。

車社会にどっぷり浸かって、車の中に引き籠ってしまった。
徒歩で移動出来る範囲、車で移動出来る範囲を並列で考えるのではなく、歩いて動く範囲にもっと意識を向けて、そこに生命や私たちの生活、文化を見出してみたい。
そういった広がりが少しずつ大きくなれば、今誰にも見られてないような場所にも目が行くようになると思う。
広い駐車場を完備した大きな店舗が出来るとか、たくさんの人を雇用する工場が出来るとか、そういう形ではなく、生活の延長で豊かな自然と地域の人々が共存していくような地方の形。そういうものは政治家が作れるものではない。私たちひとりひとりの意識が作るのだ。

僕が描く地域創生にはそんなイメージがある。