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自分の葬式の場をありありとイメージしてみる

この記事は以前に書こうと思って、タイトルだけ書いて取っておいたものです。
今日、ある方の記事を読んで、僕も同じようなことを書こうとしていたことに気がつきました。

きっかけになった記事。

この記事でも書かれていますが自分の死をイメージすることの意味やその問いかけは本当に大きな力を持っています。

僕はある時思ったことがあります。

よく臨死体験とかを体験した人が、死ぬ直前に自分の人生の走馬灯を見たって言いますよね。
それは生理学的には過去の経験から、この死を乗り越える方法をサーチするからではないかと言われたりもします。

人生の走馬灯・・・生まれ、育ち、大人になり、結婚して、子供ができて・・・
みたいな人生のドラマが頭の中を駆け巡る感覚でしょうか。

人生の走馬灯。

一人の人の人生のドラマって、誰かの葬式に参列した時に感じることってありませんか?
あまり、存じ上げなかった人の葬式でさえ、この人はどんな人生を歩んだのだろう?どんな思いで晩年を過ごしたのだろう?というような思いが駆け巡ります。

死というゴール。
このゴールをどんな状況で迎えたいのか?
ここのところについてよくよく向き合っていくことです。
どうしても死というものを遠ざけ、縁起の悪いものとして扱う風習があるので、実際にはこういったことはあまり話題には出にくいものでしょう。
でもあえて、自分の人生を自分が生き切るためには、そこへ踏み込んでみる必要があります。

だから、一度、自分の葬式をありありとイメージしてみるのです。

自分の葬式では、自分はもうしゃべることが出来ません。
来てくれた参列者さんに感謝を伝えることも出来ません。

もうその時では遅いのです。

自分の葬式の時、誰か来てくれたら嬉しいのか?どんなことを言ってもらえたら嬉しいのか?

人生においてはそれがとても重要なんだと思います。

もうそこに人生の意味が集約されています。

そう考えた時に、僕はやっぱり、僕が作った歌、その歌が出来たエピソード、そんなことをみんなが語ってくれていたら嬉しいなと思います。

そして、是非、葬式で歌ってほしい。

なんかそんなことをふと思ったんです。

死というゴールがあるから、人生は輝きます。

ゴールすることは決まっています。

そのゴールをどのように迎えるかは千差万別。

僕らはいつも、どのように迎えるか?を悩み、考え、日々生きているのかも知れません。

だから、悩んだ時にはこう考えてみるといいです。

誰か来てくれたら嬉しいのか?

どんなことを言ってもらえたら嬉しいのか?

人生は長いようで短い。

でも、誰にとっても、かけがいのない人生。

素晴らしき人生。