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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【5】神武東征は本当か?

前回は、ホケノ山古墳から初めて銅鏡が副葬された話をしました。
そしてそれは鏡を副葬する風習の九州系の王が、大和に来て、出雲・吉備と共に、大和の地に並び立ったその証ではないのか、と。

「古事記」「日本書紀」では、このことを想起させる記事があります。

〜九州からやってきたイワレビコ(神武天皇)軍が、畿内で待ち受けるニギハヤヒと、ニギハヤヒを主と仰ぐナガスネヒコ連合軍と戦い、最後はそのニギハヤヒの裏切りによってイワレビコは勝利。初代天皇としてヤマト政権を打ち立てた〜

いわゆる神武東征伝説です。
戦乱があったかは別として、イワレビコが九州からやってきて大和へ侵入したという記紀の描写。
自らを正当化する歴史書において、もし 最初からそこに居たのならわざわざ侵入したとは書きません。 したがって(便宜上イワレビコと言いますが)イワレビコと称する九州勢力が、後から新参者として大和へ入ってきたのは、史実でしょう。

(伝承では紀元前660年2月11日に日本が建国されたという)

もっともBC660年の出来事ではなく、纏向古墳群の放射性炭素年代測定から、箸墓古墳AD240~260年、ホケノ山古墳は230年前後、最も古い石塚古墳で200年前後とされています。つまり九州勢力の王が大和入りするのは、どう古く見積もっても2世紀末の話となります。

BC660年というのは、古代中国の「辛酉(しんゆう)思想」から来るものです。
辛酉思想は辛酉の年に 帝王の政治に大変革が起こるというもの。日本では聖徳太子時代にこの思想が浸透し、記紀編纂者はこれを採用したのでしょう。そのため、古代天皇の寿命はとんでもない年齢に引き上げられてしまいました。
それよりここで重要なのは、イワレビコがヤマトに入る前に、すでに天孫系のニギハヤヒと大和の王・ナガスネヒコが大和を統治していたこと。
この記紀のシチュエーションが、考古学的遺物と符合しているのです。

戦乱でイワレビコが勝利したという記紀の記述は、単なる誇張でしょう。
おそらくヤマト入りした事実だけ取って後世の記紀で「ハツクニシラススメラミコト」と称したのだと思います。
神武天皇が纏向において最初からヤマト政権の頂点に立っていないことは、古墳を見てもわかります。先述した初期古墳群からは九州の痕跡がなく、むしろ吉備王の痕跡が残っている。少なくともホケノ山古墳以前は、九州王の古墳ではないと推測できます。

3世紀 奈良盆地の古墳

一方記紀では、大和入りしたあとの神武など初期の天皇は、自らの権威を高めようと、出雲系の妃と率先して婚姻関係を結んだと伝えています。
たとえば神武天皇の妃はヒメタタライスズヒメ。父は事代主神(または大物主神)としており、出雲の娘でありました。2代綏靖天皇の妃はイスズヨリヒメで、これも父は事代主神。3代安寧天皇の妃はヌナソコナカツヒメ、これも事代主一族の娘です。
古代、妃とは単なる配偶者ではなく、大王と同等の実質的に権威を持つ巫女でありました。神の声を聞き、神羅万象を占っていたわけで、したがってこれら妃となった者も、権威ある神の巫女だったのでしょう。
このように意外にも、神武天皇ら九州系一族は、出雲の後ろだてを得て権威を高めていくのでした。同時にそれは、天皇の成立に出雲勢力の存在が欠かせなかったということではないでしょうか。
「欠史8代」が実在したか否かはともかく、ここで特筆すべきはわざわざ天皇家の書物(記紀)の中で、”纏向には「出雲」が存在していた”と、書き残している事実。これを見逃してはなりません。

しかしその後、なぜか出雲との婚姻の記述は見なくなります。
これは何を意味しているのか?
そもそも古代天皇家と出雲はどんな関係だったのか?
纏向を舞台に、いよいよ古代ヤマト誕生の核心に迫っていきましょう。
                               (つづく)

全10回 **************************************************
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)そして纏向に集まった
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?


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