見出し画像

母の卒業式

今日は、どうしても私の母のことについて書き止めておきたい。
マザコンと思われても構わない(笑)。

母・清子は昭和7年、東京の下町に生まれた。
が幼少期から、不遇な道を辿ることとなる。
まだ幼い4歳の時母親を亡くした清子は、兄弟も何人かいたらしいのだが、みな幼いうちに他界したという。清子8歳の時、唯一生きて成長していた兄は、父の仕事の搬入を手伝うためリヤカーを引っ張っていた際、千住新橋の中央付近であろうことかやって来た大型トラックにリヤカーの右輪ごと巻き込まれ、跳ねとばされ、帰らぬ人となった。兄は即死だったそうだ。

そして昭和20年、東京都台東区下谷病院で入院してた父を看病するため、清子は一晩中病室にいた。
3月10日未明、無数の爆撃機の轟音とともに「ヒューヒュー」と落ちてくる焼夷弾。のちに“東京大空襲“と名付けられたこのB29の攻撃に、清子はさすすべもなく、ただ怯えるばかり。眠れぬ夜が明け、明るくなると、清子のいた下谷病院の周りほとんどの家々は焦土化し、焼死体が至るところに転がって…。その光景はまさに地獄図だったという。
奇跡的に清子は助かったが、その年に父は他界。
清子12歳の出来事だった。

こうして戦中戦後を、一人で生きていかなくてはならなくなった清子。
食べていくのも必死だった時代に、遠い親類を転々とし、親なし子として冷遇されながらも、強い意志を持って真っ直ぐに生きていった。
20歳の成人式では、自分で着物を縫い、それを着て記念写真を撮った。
東京の綾瀬警察署の事務員として働く場を得て、少しずつ足元を固めていったのだが、やはり根底にあるのは家族に憧れ、家族とともに生きたいという願望。

画像1

            (手作り成人式の記念写真)


だからこそ仕事を辞めてでも知人の紹介で、多家族の青木家へ嫁いだ、だがそれは決して幸せな道ではなかったようだ。
本当の家族ではない……。そのことが日増しに大きなギャップとなり、幼なかった私(徹夫)を抱いて東武線の土手に登り、線路へ飛び込もうとした日もあったらしい。

しかし耐えた時間は長かったが、やがて子に恵まれ、半身不随の夫を介護し続けながらも孫に恵まれ、ひ孫の顔まで見ることができた。
今まで一人だったのに、血を分けた家族が自分の後からこうしてできたこと、そのことを心から喜んでいた。
20年前に東京から千葉へやってきてからは、
「今が一番幸せ」と口癖のように言っていた母。
日頃から何事にもポジティブで、俳句や短歌、自伝執筆、そして布の端切れを利用して手芸作品を何千個も作る。自宅はまるで工房と化していた。

そんな母が、息を引き取った。
3年間透析を続けた上、ついに心不全を発症した。
しかし最後まで前向きに、
「水分を取ってはダメと言われているから、水を口に含んでから吐き出すの」と
透析によって死ぬほどカラカラに乾いた口内をどうすれば潤せるか、
工夫していた。
家族に憧れ続け、家族を大事にし続けた一生だった。

明日、葬儀という名の、母の人生の卒業式を行う。

画像2


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?