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壊れた楽器について

うちに壊れたアコースティックベースギターがある。
ベースギターには一般的に四本の弦があって、そのうちの一番太いものをE弦、あるいは単に四弦と呼ぶ。これを楽器上に張るための部品、ナットというのが不調の場所になる。このアコースティックベースギターは、ナットの四弦部分が摩耗しすぎていて、チューニングがまともに合わない。合わせたとしても、弾くたびに簡単にずれていく。
私はこの楽器をたまに弾く。音はちゃんと出るし、その音色も気に入っている。
壊れている、というのは客観的に、というか一般的な指標で言えばそうなのだが、私にとってはこの表現は違和感がある。

正常である←→壊れている

この指標は明らかに良し悪しの価値判断を含んでいるが(当然、正常なほうが「良い」)、本当にそうか?
私は、そうではなくて、「四弦のチューニングが不安定な状態にある」というのはその楽器のひとつの「状態」に過ぎないのではないかと考える。


Bill Orcutt ビル・オーカットというブルースギタリストがいる。
上の映像を見ればすぐに分かるが、彼はギターに四本しか弦を張っていない。
このギターはKAY ケイという米国の過去にあったギターメーカーのもので、当然もともとは六本の弦が張られていた。ところが一度ネックが折れてしまった。そのネックを交換することなく修理した結果、ネックは六本の弦の張力に耐えられない状態になった。
ギターという楽器は、六本の弦で和音を奏でる構造上、弦が二本も欠けていれば正常な演奏はできない。フォームとコードの対応関係が前提になっている以上、音の配置関係は正確である必要がある。
だから、一般的な指標に沿って言うならば、この楽器は「壊れている」ということになる。

そして以下、彼のライブパフォーマンスを捉えたもう一本の映像。

サムネイルでも分かるし、映像中の12分あたりからのアングルでもはっきりと見える。
このエレクトリックギターも、弦が四本しか張られていない。
もちろんこちらは上の「壊れた」アコースティックギターとは無関係な「正常な」エレクトリックギターだ。
もう言いたいことが分かるだろうか?


改めて、「楽器が壊れている」とはどのような状態を指すのか考えてみる。
ここまでの話を踏まえて考えると、それは実はひとつの狭い基準の中にある正常/異常の判断に過ぎないのではないだろうか。
楽器が「正常」でないと困るのはどんなときか。
それは例えば、(多くの場合はいわゆる西洋の)音楽理論に基づいて作曲された曲を、譜面から再現するとき、のような状況だろう。
譜面上のCの音符を見て楽器のCのポジションを押弦する。このときにCの音が正確に出ないのであれば、譜面に記された音楽を正確に再現することはできない。
もうひとつ考えるなら、やはり西洋音楽理論に基づいて作曲された曲を、複数の演奏者で合奏する場合か。この場合には複数の楽器の関係性──ハーモニー──がある特定の形になるために一定の基準が必要になる。
このふたつについて少し考える。
譜面から再現する、というとき、再現することそれ自体に、何か美的な価値があるだろうか。つまり、一音と過たず正確な演奏に比べて、幾音かのミスタッチをふくむ演奏は美的に劣っているのだろうか。仮にそのミスタッチが楽曲を(偶然にせよ意図的にせよ)「より良くしている」とあなたの美的感覚が感じとったとき、それでもあなたは「今、ミスがあったな」という判断をするのだろうか。
ハーモニーについても同様のことが言える。ある音と音の間の関係が美しい、つまり協和音であると感じるのは、実は相対的な感覚なのではないか。言い換えれば、音が「合っている」とか「外れている」とか言うとき、我々は自らの美的感覚で判断しているつもりで、実はある美的基準を無意識に内面化しているのではないか。ひとつ指摘をすると、西洋十二音階(ここではあえて「純正律」という表現を用いないが)──いわゆるドレミファソラシドとその半音階──というのがまずきわめて恣意的な指標で、少し考えれば分かるが、そのドとレの間には実際にはグラデーションのように無数の音(いわゆる微分音)がある。
西洋音楽理論というのは確かにある程度普遍的なひとつの美の基準ではあるけれど、絶対的なものでは全くない。実際には、世界全体で見るのなら、こうした理論のまったく外部にある音楽のほうが圧倒的に多いはずだ。そしてもちろん、それらを「良い」、「美しい」と感じる美的感覚がそこにある。


壊れた楽器というところにもう一度立ち戻ってみる。

John Hegre ジョン・ヘグレというミュージシャンがいる。
見ての通り、彼は演奏の中でギターを破壊する。それはたとえばジミ・ヘンドリックスやマシュー・ベラミーの、パフォーマンスとしての楽器破壊とは位相が異なっている。彼の楽器破壊は、音楽行為、演奏行為の一部になっている。つまり、ある特定の音が音楽に必要だから、その音を出すための入力を楽器に対して行った結果として、楽器が壊れている。
ここにおいて、破壊、という言い方は正しくない。楽器に対して特定の操作を行ってそこからねらって特定の音を得ている以上、これは演奏と言うべきだろう。
さらにもうひとつ付けくわえる。忘れがちなことではあるけれど、楽器を演奏するとき、楽器は常に摩耗している。物理的な楽器、とくにアコースティックな楽器なのであれば必ずだ。だから、楽器を演奏するということは、緩慢にではあるけれどある面から見れば楽器破壊の側面がある。

Michalis Moschoutis ミハリス・モシャウティスはクラシックギターを用いるミュージシャンで、極端にチューニングを緩めたギターに弓を用いることで独特の音色を生み出している。この演奏法は楽器に極端に大きな負荷を強いるものという点で、上のジョン・ヘグレの演奏と近い方向性を持っているとも言える。

「演奏に伴って楽器を壊すべきではない」、という倫理があるとき、そこには、なにが「正常な楽器」でなにが「壊れた楽器」か、という基準が存在している。
「澄んだ音色」が良いもので「協和音」が良いもので「譜面通り正確」が良いもの、と言うとき、そこにはある「良さ」の恣意的な基準が存在している。
そういう共通の基準、美的規範の中でシェアできる「良さ」ももちろん「良い」。私は特に日本のポップミュージックが大好きだし、それをはっきりと美しいと感じる。
でも、そもそも実は「美的感覚」が固有のもの、孤独のもの、私の中にだけあるもの、と思い出させてくれるような、逸脱的で偶有的な美のあり方も、同様に「良い」。

私の壊れたアコースティックベースギターは、E弦に較べれば状態のましな残り三本の弦を使ってコードを表現することができて、弾き語りもできる。
ただ、ふいに四弦に触れて撥いてみると、びりびりと音程感の希薄なざらついた音が混じる。
偶然の響きがほしくてそこにわざと触れてみることがあって、そういうとき、この「状態」は私にとって「良い」のだと感じることができる。
冷蔵庫にとって「冷えない」のは「壊れている」。洗濯機にとって「洗えない」のは「壊れている」。これは機能的な判断だから、明確な基準がある。
翻って、楽器はどうか。
正確な音程が出力できるというのは、機能的な判断であって、美的な判断ではないのではないか。
美的な基準で見る対象に対して、正常だ、壊れている、正しい、間違っている、という判断は本来できないのではないか。
これはごく特殊な事例かというとそうとも限らない。というか、世界は案外こういうものでできている。
石が「割れている」とか木が「折れている」のは「壊れている」状態なのだろうか? そんなことは全くないと思う。それは単に「そういう状態」としか言いようのないもので、価値判断の外部に位置する「状態」なのではないか。
自然世界で鳴っている自然音は、いずれも音楽理論とまったく無関係のものであるはずだ。それでも、そこにはやはり「美」のようなものがある。
そういう偶然性への先触れ、美が開かれているという予感を、「壊れている」楽器が私に与えてくれる。


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