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蛙坂須美 『怪談六道 ねむり地獄』、隙間の夢

トバリさんは、今から二十余年も前、思春期の頃、奇妙な特技を持っていた。それは一言でいえば、朝の起床時、二回目覚めることができる、というものだ。
いつでもできるわけではなくて、できそうなときには夢の中でそれと分かるらしい。そういうとき、夢の中で「これは夢だ」と認識できる、いわゆる明晰夢の状態になる。そうして目覚めようとするときにその感覚が「来る」。そのタイミングで、細い糸を掴むように意識を一点に向ける。
その先はいつも同じだ。目を覚ますと、なんとなく体全体に浮遊感がある。つむじのあたりから少し意識がはみ出ているような、背が急に十センチ伸びたような。馴染まない手足を動かしてなんとかベッドから出ようとすると、下階から母親の声がする。朝ごはんできたわよ。そこで、このまま下階に行ってしまうとまずいような気がする。このまま続けたらだめだ。だってこれはまだ夢の中の出来事なのだから。そう気づくと、はっと目覚める。半身を起こして伸びをするとしっかり手足がついてくる感覚があって、気持ちよく目覚めることができる。
睡眠と覚醒の隙間にもう一度小さな睡眠を挟む。いわば夢から現実へ心を軟着陸させるためのワンクッション。これはそのような意識のコントロール法なのだろう、と当時のトバリさんは解釈していた。
でもそうやって「隙間の夢」を見ることも一年半ほどでやめたらしい。そのきっかけはこんなことだ。

あるとき、そんな夢の中で、いつものように下階から呼ぶお母さんが、階段を上がって扉をノックしたかと思うと部屋まで入ってきたことがあった。
「起きなさい」といつもと違う険しい声色で言うその顔は、かろうじて目鼻と認識できる凹凸が刻まれた岩礫だった。
そこで無理矢理意識が引っ張り上げられるように目が覚めた。と、下階から階段を上がってくる足音がする。ヤダ、どうしよう、そう思っているうちにドアが開く。
「もう起きなよ」
何ともない、普段通りのお母さんだった。

トバリさんはそれからしばらく、お母さんの顔が突然岩礫に変わるのではないかという妙な疑念に囚われて、その顔を直視できなくなった。そんな状態も自然に治まりはしたが、今でもあの岩礫のイメージをふと思い出すことがある。例えば実家に帰省して、呼び鈴を鳴らし、お母さんが玄関に出てくるのを待つまでの時間に、それは起こる。そんなとき、自分が夢の中にいるのか、それともちゃんと起きているのか、曖昧になるそうだ。

      ※     ※     ※


以前に『怪談散華』という怪談本の感想で、収録されている「蝙蝠エリちゃん」という話がとても面白い、ということを書いたのだが、その著者である蛙坂須美氏の単著が出た。

これまで様々なアンソロジーに寄稿してきた蛙坂氏なのだが、それだけに単著には興味ないのかな?と思ったりもしていた。もし単著を出すのなら、それは単なる「作品集」のようなものではなく、単著として出す意味のあるものにしてくるはず、と思ってもいた。
いよいよ発売した本書を一読、二読して、なるほど、と思った。
それぞれのエピソードの面白さと本自体のコンセプトが響きあう、美しい一冊だった。

この驚きを直接味わってほしいので、引用はしないけれど、本の真ん中に収められた「病膏肓」というエピソード。実話怪談本で、このような形で書かれた話というのを他に見たことがない。そしてその特殊さは、単話の飛び道具でなく、本全体の中ではっきりと意味づけられる。

唐突な話のようだけど、子供の頃にテレビで見てすごく怖かったものがある。
志村けんの『バカ殿』の一エピソードだ。
志村けん演じる殿が寝ていると、いやに蒸し暑い。寝苦しく目を覚ますと、城が火事になっている。逃げようとするが、逃げ場がない。焼け死ぬ、というところで目が覚める。夢だった。とそこで、殿の背後に黒焦げメイクの家来が二人現れる。
『バカ殿』自体はもちろんお笑い番組なのだが、このエピソードはとても怖かった。
夢が現実に浸食している、ということはもちろん怖い。でもそれ以上に怖いのは、逆の作用、つまり、夢が現実に浸食している以上この現実もまた夢なのではないか、と気づかされることだ。
夢から覚めるが、その先がまた夢で、いつまでも夢から抜けられない。いろいろな物語で語られてきたこんな話は、ひとつの普遍的な恐怖の形と言えるんじゃないか。

本書においてもっとも感嘆させられたのはやはり最終話の「泣きぼくろ」というエピソードだ。蛙坂氏がいつか使っていた「降霊の術式」という言葉を怪談本に当てはめたとき、最終話には当然、怪至る・・・に足るような何かがほしくなる。本と読み手を隔てている汽水域をかき混ぜるような何か。この現実に沁みだすような何か。
本書のコンセプトと合わせて考えたとき、このエピソードにそんな企みを感じてしまうのは深読みが過ぎるのだろうか?

ここまで芯だけをほじくり出そうとするような読み方をしてしまっているが、各エピソードごとに様々に変化させる語り口の妙もまた素晴らしかった。
そこで語られているものに相応しいかたちを与えようとするような。
たとえば「影猫」。
ここにはひとつの〈幽霊論〉が繊細に編み込まれていて、「蝙蝠エリちゃん」に続く新しい幽霊譚の実践だと感じた。
「土地」。
長いタイムスパンの出来事をクロニクルとして見せる手法は、客観的になりすぎるというか、実話怪談においては扱いが難しい気がしている。短冊を糸でつなぐようにそこにすっと芯を通して、ひとつの怪談として成立する形に仕上げている。
「ひとだま」。
こういう、いわゆる手垢のついた題材に新鮮な味わいを与えようとする試みが大好きだ。タイトルから想像するものと実際に出てくるものとのギャップがうれしい。
「夫」。
不条理きわまるエピソードだからこそ、端的に強いシンプルな言葉を放り込んでいく。余計な装飾はしない。
「犬目耳郎」。
「猿山」あたりと並んでちょっとコミカルな手触りのあるエピソードなのだが、そうして引きずり回した先に唐突に不気味なものを叩きつけてくる。オチのほのめかすような暴力性になんとも嫌な気分にさせられる。
「コード」。
本の終幕に向けて布石となるようなエピソード。現実が反転しては最悪なほうへ転がっていく。それとともに言葉が反転するところが見事で、こうやって裏返して転がしていくような語り口は本書の持つドライヴ感のひとつの源泉だと思う。


「志が高い」という言い方をしてしまうと何か偉そうになるが、とはいえ志の高い本だと思う。
私だって一応書き手だから、怪談本というのがどういう類の書物なのか分かっているつもりで、それでもその先を見てものを作りたいと思っている。
消費される商品ではなくて、作品を作りたいと思っている。
そんなものは求められていないとか、黙って怖いものだけ書いていればいいとか、たとえそんなふうに言われようが譲れない一線だ。
直近だと高田公太氏の『絶怪』とか読んだときも思ったのだが、商業でこういうものを企んでいる人がいて、こういうものが作られるなら、まだやりようもあるなと思えるのだ。
全体がひとつの作品としてかたちを成していて、それでいて細部に抜かりがなく、本としてある意味を伝えてくる、いい本だった。



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