朝のオーケストラ

 夜の帳がほつれてその向こうに朝が透けて見えたころ、パン屋の店先からどこかミレーの絵画を思わせる薫りが漂ってきた。鳥たちはリハーサル前のオーケストラのリラックスした音出しのようにひかえめに思い思いの歌を歌う。往来には誰の姿もない。
 僕は平泳ぎの要領で頭上の空間を漕ぎ、肺を深く冷たい空気で充たす。それを静かに吐くと、マンガの吹き出しみたいに顔の前に浮かんだ白い息が大気に溶けるのを見送り、パン屋の角を曲がった。
 足下でハンバーグを捏ねるような音がした。爪先が踏んづけた赤黒い粘つきは品の悪い海鮮居酒屋のお通しを思わせた。次いで靴に黒い滴が三粒、四粒と付着する。
 え、と思いながら、滴の飛来した方向に顔を向けると、頬に霧吹きでもかけられるような冷たさを感じた。反射的に拭った指に、生臭いぬめりが絡みつく。繊維質の筋が頬から指まで糸を引く。
 前方二メートルのところのアスファルトの上で、スーツの破片を身体中にまばらに貼りつけた肉の人形が仰向けに寝転がって踊っていた。傍らに曲がったマンホールの蓋が転がっている。踊る肉人形は地面に押し付けた腰を支点にして、体をV字やM字に折り曲げて悩ましげに痙攣した。
 ちょうど腰の下にマンホールの穴があって、その中に向けて強い力で引っ張られているようだった。唖然とする僕の目の前で肉人形はマンホールの中に無理矢理身を捩じ込んでいく。無茶なものを呑み込ませたミキサーやシュレッダーの断末魔のような音がした。テレビの握力選手権で腕力自慢の男が束ねた割り箸を両手でねじり切っていたのを見たことがあるけど、最後のほうの光景はその割り箸の様子にそっくりだった。
 二分か三分、角を行きつ戻りつしてから、ゆっくりとマンホールに近づく。先ほどまで立ち上っていた湯気はもう朝の空気に混じって消えていた。赤や白の欠片、黒ずんだ液体で縁を彩られた地面の暗い穴を覗き込む。底が見えない闇がぽつりとあって、おんおんと低い反響音が中から響いた。
 漂う重油めいたにおいが鼻から頭に入り込むと、それがヘドロのような固体になってそこに貼りつくイメージが浮かんだ。ここを離れたいと思った。
 転がったマンホールの蓋の縁に指をかけて引きずり、穴の上に被せたが、曲がっているせいでうまく塞がらない。響いていた音が通り道を狭められ、ややピッチを上げる。低音域の管楽器のようなその音もやがて消えた。
 入れ換わりに突き当たりの大通りで短く大きな金属音が空気を割る。
 交通事故があったみたいだった。

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