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すれ違った「大学」への期待

この間、ある先輩と夏休みについて話したとき、先輩に「一年生か、そろそろインターンを探す時期じゃない?」と言われ、驚いた。当時、先輩が特別で向上心のある人であると思っていたが、のちに一年生の夏休みでインータンをする人は少なくないことがわかった。SNSで「インータンを始めるぞ!」というつぶやきを見たことが次第に多くなり、大学生の本業が勉強であると信じ込んでいる僕も焦ってきた。昔、先生が皮肉に言った「いまの子は幼稚園からインータンを探さないといけないんだね」という冗談は、現実味を帯びてきた。

この件で入学して以来ずっとぼんやりと感じている違和感が明らかになった。それは「大学」に対しすれ違った期待である。いわば「大学とは何」や「何のための大学」という問いである。

大学への期待は、大まかに三つに分けられる。知的創造を果たす機関としての大学・労働市場の需要を満たす機関としての大学・そして学生たちが成長する場としての大学。これらがぶつかり合った結果、大学はいずれもろくに果たさず、政府から学生に至って迷走が続いている。

数多くの調査がすでに示した通りに、ここ数年インータンを含めて就職活動は早期化しつつある。政府は「三月説明会、六月面接」という就活ルールを維持することとしたにもかかわらず、企業からすれば優秀な人材を早く確保するため、学生からすればより万全な姿勢で就活に臨むため、就活スケジュールはどんどん前倒しされ、学術研究の場としての大学がむしばまれることが実態である。その背景にはコロナ禍の影響だかではなく、かつてより大学が学校から社会への通過儀礼にすぎないという考えもある。すなわち、大学はそもそも世間に知的機関ではなく、労働力を供給する機関であると認識されている。大学生たちも同様に、大学において知的成長を求めるのではなく、大手企業に入社することを目指している。

というのは、別に悪いことではないと思っている。歴史にさかのぼると、確かに大学は知的追求のための機関であり、大学で生み出された理論や知識が現実に応用できるかどうかという配慮はなかった。しかし、資本主義の発展や高等教育の普及に伴い、大学はより豊かな社会を作るために労働市場の需要に合わせ、人材を育成しなければならないこととなった。

とはいえ、日本の大学は果たして労働市場の需要に合わせる人材を育成しているのでしょうか。どの大学のシラバスをどう見っても、現在日本の労働市場の需要から乖離するようしか見えないだろう。カリキュラムの設計そのものは時代錯誤のように理想的な大学を作ろうとしたが、実際、大学で学んだものはどのくらい職場で使われるのか、どのくらい学生たちの将来に役に立つのか。おそらく卒業したらすぐ学校で勉強したものを置き去りにする、というのが真実だろう。現在日本においてIT人材の不足も、労働市場から大学の乖離の結果だと見えるのではないだろうか。

大学の役目は人材の生産であろうと知的創造であろうと、どちらでも一理があると考えている。すでに述べたように、経済的成長には人材(いわばヒューマン・キャピタル)が不可欠である。一方、自由な知的創造(基礎研究と呼べたほうがいいかな)は将来の発展につながる。一見役に立たない研究は、未来に新たな技術の基盤になりうる。例えば、mRNAが発見された50年前、誰も実用やら利益やら考えたことがなく、逆にその重要性が軽視されていた。しかしコロナウイルスが猛威を振るっている今、当時mRNAの発見がなければ速やかなワクチン開発はほぼ不可能だと思われる。

問題視されるべきのは、大学の役目はいったいどちらか、世間と大学人の意識上のズレと、政府がそのズレをなおざりにして規制緩和を行うことである。大学は学問探求の場だと言っても、現に就職より学問に興味ある学生は悲しいほどわずかだ。その反対に、大学は職場に入る前の準備だと言っても、実際のところカリキュラムの設計は労働市場の需要から大きく乖離している。文系学部廃止など大学に関する論争の背後には、大学は就職のためか学問のためかという問いがあるのではないだろうか。

そうした中で学生から三つ目の期待が現れ、大学の役目をめぐり問題がさらに複雑化してきた。周知の通り、日本において大学生はバイトしたりサークルに参加したりする文化が盛んである結果、勉強時間が欧米の大学生に比べて少なく、「大学ってただ遊びの場じゃない?」と批判されている。だが、ひとり大学生として僕は遊びというより、人格の成長と言ったほうが正確かなと思っている。なぜなら、人間の成長過程において大学は両親の保護から自立できるようになる肝心な段階だからである。一人暮らしを始めて自分の面倒を見たり、恋人をできて恋することを学んだり、バイトしてサークルに参加していろいろな人と接したりする。そういった経験はただの遊びではなく、その先の人生にとって欠かせない成熟さを育めることである。

しかしながら、今の大学は表向き人格の独立性を尊重するというポリシーを掲げている。いや、人格の独立性を尊重するというより、学生の人格形成に放任主義を取るほうが現実に近いだろう。その結果、人間性を高めるためであるべき大学生の課外活動はもはや『限りなく透明に近いブルー』のように無秩序になり、いわゆる自分探しも、自分見失いになった。そこで大学=レジャーランドという世間からの批判が現れた。実際、大学生として僕は周りに無茶苦茶な遊びをすでに見飽きた。授業で資本主義・消費主義に対する批判理論を勉強しながらも、放課後に六本木のクラブへ直行。環境主義、SDGsを謳いながらも、タバコを容赦なく吸う日常。これは本当に大学のあり方なのかなって、たまに思っているよね。

この間、吉見俊哉先生の『大学は何処へ』を読んだ。知的創造に不可欠なのは金ではなく学内のポジションでもなく、希少な、自由な時間だと指摘された。同様に、学生にとって最も重要なのも自由な時間であると考えている。

にもかかわらず、大学において「自由な時間」という重要かつ希少な資源がすれ違った期待に奪い合われている。その挙げ句に、知的創造からしても大半の大学生は学術より学歴に気にしており、人材の育成所からしても教わった知識はほぼキャリアに役に立たず、性格が成長させられる場所からしても大学生の遊びは無茶苦茶しか言えない。もちろん、それらは必ずしも衝突するのではなく、例えば医学部、理工学部や、文系なら法学部、勉強がキャリアに全く役に立たないとは言えない。大正時代にさかのぼれば知的創造と人格の陶冶を並行させることも見える。しかし、世界ランキングに落ちつつある日本の大学を見て、飲み会で流連する学生たちを見て、やはり大学の存在意義を考え直したほうがいいのではないかと、思っている。

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