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20代の年相応むず過ぎる(5月エッセイ①)

 仕事終わり、会社の飲み会にみんなで向かう途中、上司と隣だった。こういう時の会話は何を話せばいいのかいつも困る。一般的に、天気の話から入るのが定番ということは僕も知っている。だけど、新卒2年目の自分がいきなり天気の話をしてきたら、『この子、気を遣って無理矢理話そうとしてくれてる…』、『雑談の仕方をどっかで覚えてきたのかな…』と思われないか心配になる。こいつ無理してんなと思われたり、そんな気を遣わなくていいのにと逆に気を遣わせたりしたらどうしようといった考えが過る。
 「もう夏ですね。」とか「明日気温25度まで行くらしいですね。」とか正面から言わずに、「なんか今日風ぬるくないですか。」といった具合に少し中心を外した言い方をしてしまう。

 何年か前に“アンチエイジング”と“エイジングケア”という言葉の違いを見た。“アンチエイジング”は老化を防止して若返りを図るもので、“エイジングケア”は年相応に体を整えていくことと書いてあった。最初はいつまでも若い姿でいる方が良いと思ったけれど、普段何気なく街を歩いていて、第三者から見て、若返りがあまり上手くいっていない人を見ると、自分は年相応を目指そうと思った。

 年相応を目指した手前、20代としての振る舞いってそもそもどんなのだろうと考える。渋谷、下北沢辺りを散歩していて、グループで行動している10代20代のファッションを見ると、シュッとした韓国系ファッションか、ごわごわしたストリートファッションの2種類くらいしかないように見える。おそらくこれは流行りを反映しているだけで、年相応とかそういうことではない気がする。
 彼らにとって大事なことは、今の自分たちに何が一番似合うかということではなく、憧れやトレンドから着たいものが何かということなのだと思う。それが良い悪いという話ではなく、僕にとって年相応ということを考える参考にならないというだけである。
 どちらも自分がするファッションではないので、知らない者は全部同じに見えているだけかもしれない。

 同じ街の中でもおしゃれな中年男性を見ると、こういう人を目指したいと思う。半袖半パンのラフな格好だけど、着ているもの良さと清潔感を感じる。白シャツを着こなす白髪で恰幅のいい男性には、それまでの人生の厚みまでも勝手に想像する。ここまでの人生で流行りのファッションを通りつつ、自分に合うものを選び取ってきた結果が身だしなみに表れているような気がする。

 年相応というものを考えていくと、その年齢でしかできない経験をどれだけ積み上げることができるかということなんじゃないかと考える。若い時に、自分の憧れてるもの、皆がこぞってやるものに全部乗っかりながら色んな価値観を獲得する。その中で自分に合うもの、年を取って合わなくなっていくものを知っていく。そうしてようやく今の自分に似合うものを自分の意思で選び取っていく。それはきっと年相応であり、自分らしい姿になっているんじゃないかと思う。
いつか1周回って、「もう夏ですね。」と自分の言葉で言える日が来るのか、「なんか今日風ぬるくないですか。」というのがもっとも自分らしいのか、それとも2つを上手く組み合わせた言葉選びをするのか。

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