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週報+で、ハナシ噛み合ってます?

だんだん暖かくなってきましたね。桜の木は、花びらが落ちて青々とした葉をつけ、最寄り駅から自宅の間の道端には、大きなアリの巣ができていました。どいつもこいつも春になって活発になっています。そんな一週間のなかで、わたしが観たり聴いたり読んだりしたものをまとめました。

■4月15日~4月21日の週報

読んだ本

読んだマンガ

観た映画

聴いた音楽(CD)

行ったイベント

■で、ハナシ噛み合ってます?

今週読んだ『読む力——現代の羅針盤となる150冊』と『世界の辺境とハードボイルド室町時代』は、対談本でした。そして、これは対談ではなく討論ですが、『好敵手——世紀のテレビ討論』というドキュメンタリー映画を観ました。今週はこれらを関連させて紹介したいと思います。

二人で話したものが書籍になっている「対談本」。この面白さは、二人の対話が噛み合って、話題がドライブし、話が思いがけない方向に転がっていくところだと思います。これは、一人が黙々と書いているだけのものでは、決して得られないものでしょう。

さらに、対談本の良いところは、ちゃんと編集者が間に入っているところです。もし、話している二人が噛み合い過ぎて、マニアックな話題や専門用語がバンバン飛び交うようになると、第三者は置いてけぼりになります。

しかし、対談本では、対談現場にいる編集者が読者を想定して分からないことがあれば、その場で「これはどういうことですか?」「説明を加えてください」など、細かく注文をつけています(さらに、対談後に足りない箇所があったら、後日、確認しているはずです)。

また、さらに親切なものは、語の説明として脚注をつけていています。なので、対談本は、専門家の深堀りと初心者向けの解説が同時に読めちゃうオトクなものなのです。

コレ知ってる?アレ知ってる?
『読む力——現代の羅針盤となる150冊』は、日本を代表する読書家、松岡正剛と佐藤優の対談本です。内容は、サブタイトルにあるように、いま、読むべき教養本を紹介していくというものです。新書サイズなので、150冊をじっくり紹介しているわけではありません。もう各々の論者が「この分野といえば、〇〇ですよね」とバンバン紹介していきます。

佐藤 それにしても、昨今のドイツ思想の退潮はすさまじいですね。……
松岡 残念ですね。思想だけでなく、文学も低調です。ときどきギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』(1959年)のような大作が出たりもしてますが、やはり不調です。むしろチェコなどドイツ周辺には面白い文学者がいる。その代表格がミラン・クンデラでしょうか。
佐藤 東欧でいえば、アルバニアのイスマイル・カダレとかもいいですよね。
松岡 カダレの『城』(1970年)とか『夢宮殿』(1981年)なんかはカフカの再来でした。それにしてもやはり近年、ドイツは何かを失っていますね。(『読む力——現代の羅針盤となる150冊』)

こんな風に、餅つきのように二人一組でエッサホイサとテンポよく書籍名を挙げていきます。これは、二人が「書籍による知の体系」を共有しているからだと思います。というのも、本は出版社がだしています。なので、ある意味でそれがラベリングとして機能していて、「あの出版社が出しているものは、〇〇分野だ」として、意外と系統立っているんです。なので、本と本は関連し合っていて枝葉状に整理できるんだと思います。

このエッサホイサ感は、どこかで味わったことあるなあと考えていましたが、レコードをまわすDJのバック・トゥ・バックというスタイルでした。

クラブにおいてDJブースで選曲する者は、通常ひとりだけですが、バック・トゥ・バックは、二人で代わる代わる曲をかけていきます。

で、この『読む力——現代の羅針盤となる150冊』に似ているのが、NOEL & GALLAGHERのミックスCD『Play Loud』です。ちなみに、このDJユニットのうちの一人は、ピチカート・ファイブの小西康陽です。

このミックスCDは、二人のDJが各曲30秒ぐらいで「コレ知ってる?アレ知ってる?」というふうに次々とレコードに針を落としていきます。これも、膨大なレコードのライブラリーをお互いの頭の中で共有しているからこその芸だと思います。

異世界を知る人の対話
次は、『世界の辺境とハードボイルド室町時代』。これは、アフリカなどの「辺境」を冒険するノンフィクション作家・高野秀行と、室町時代を専門とする歴史学者・清水克行の対談本です。

高野が取材で訪れた世界各地の話と、清水の歴史研究で発見した話が噛み合って、どんどん話題がドライブしていきます。

高野 ……中世から近世にかけては、新米より古米の方が高かったという。
清水 はい。なぜ古米の方が高かったのかを考えて、「古米は炊くと増えるから」という可能性に気づきました。古米は新米よりも多く水分を吸収して、同じ一升でも炊くと分量が増えるんじゃないかと。……
高野 それを読んでびっくりして、僕も古米と新米のこと、調べ始めたんです。……それでミャンマーに行ったときに聞いてみたら、やっぱり一般的に古米の方が新米より値段が高いとわかりました。
清水 高い理由は何なんですか。
高野 一つには清水さんのおっしゃるように古米の方が増えるから。もう一つは、おいしいから。……タイヤやミャンマー、それにインドもそうですけど、細長くてパサパサしたインディカ米ですよね。あれはパサパサしているっていうのは日本人の感覚で、向こうの人にとっては軽やかなんですよ。(『世界の辺境とハードボイルド室町時代』)

時代も場所も全く異なる話なのですが、やはり人の営みは変わらないところもあります。衣食住、経済、コミュニティ、社会の在り方などのお題でいつまでも話がつきません。まるで知り合いたての気の合う男女のようです。

この企画は、やはり何かの専門家だからというより、知的好奇心が異様に高い二人だからハマったんだと思います。二人の話から、いまの日本の「当たり前」が普遍的なものじゃない、今生きている社会がすべてじゃない、と開放感のあるメッセージが伝わってきます。

この対談を、さっきのDJのバック・トゥー・バックにたとえるなら、 CHRIS MENIST & MAFT SAIの「PARADISE BANGKOK : THE EASTERN CONNECTION」ですかね。

タイ人で、自国の60~70年代の歌謡曲のレコードをプレイするDJ Maft Sai。そして、主に非米英国のレコードをレアグルーヴ視点で掘り起こし、再発しているレーベル・FINDERS KEEPERSのオーナー・Chris Menist。この二人が各地で発掘してきた珍しいレコードが選曲されています。

ついつい、音楽といえば、Apple musicやタワーレコードにあるもので考えがちですが、世界にはいろいろな音楽のスタイルがあるんだ、と素直に感動できる一枚です。

若者たちのアツい討議
まだ読みかけですが、『オーバー・ザ・シネマ——映画「超」討議』もなかなか熱い対談本となっています。この本では、表象文化論を専門とする若き研究者、石岡良治と三浦哲哉が映画をめぐる対談をしていて、章によっては一人ゲストを交えた鼎談となっています。

この本の対談は、面白いことに、先にあげた『読む力——現代の羅針盤となる150冊』と、ある意味で逆のベクトルをとっているんです。

三浦 ……かつて映画館しかなかった時代、あるいはそれにテレビ放映やVHSが加わっただけの時代に比べて、「情報過多」かつ「映像過多」の時代がとてつもなく進んでしまったということをまずは確認したいと思います。そこでは「イメージライブラリー」を使いこなす前にそのなかで遭難してしまうということさえ起きてしまうかもしれませんし、あるいは、量の多さにおそれをなして、「見るべきもの」と「そうでないもの」をはじめから峻別したり、絶対的な序列のもとにしか過去の作品を見ようとしない——そのような硬直した「名作主義」に逃げ込むということもなりかねない。かつては「闇雲に見る」ということこそが正解だと言われもしましたが、果たして今それをして活路を得られるかも、疑問なしとしません。このような時代に、「イメージライブラリー」どう入ってゆき、さらには、それぞれ自分なりの映像の歴史を再構築していくことができるか。それが本日のメインの問いの1つです。(『オーバー・ザ・シネマ——映画「超」討議』)

つまり、膨大な情報や映像が次々と流されるいま、先の松岡正剛と佐藤優のように、「コレ知ってる?アレ知ってる?」となる共通の教養の枠組みを持つことは難しいとしているわけなんです。

その姿勢は、対談の仕方にもあらわれている気がしています。『読む力——現代の羅針盤となる150冊』がテニスのラリーのようにぽんぽんと短いセンテンスが積み重ねられていくのだとしたら、『オーバー・ザ・シネマ——映画「超」討議』は野球の表裏の攻撃のように、相手のまとまった話を受けて、またこちらもまとまった話をするという形になっているんです。

石岡 ……よく言われることですが、クリティーク(critique)の由来はギリシャ語で「分けること(krinein)」を意味する。批評を「判断すること」として考えると、「判断」のドイツ語 urteilは「分割すること」とも訳されるから、根源的には何かを分けることが批評であるという話がある。その観点からすると、例えば「キューブリックはだらしない」といった類の強烈な基準を持ち込むことの意義はあるのではないかと思います。
三浦 なるほど。シネフィル的な選別の身ぶりですね。ただ、今はその基準をいかに立ち上げるかと考えたときに、なかなか難しいところもあると思います。つまり、僕たちのように映画の歴史がリアルタイムで生成する流れに立ち会うことができず、遅れてやってきた世代は、そもそも、そこで立ち上がってきた基準を後からインストールしているにすぎないので、良し悪しを判断する軸をけっして正統には持っていないと言うことがあります。先行世代の打ち立てた基準をそのまま追認するかたちでいいんだろうかというのが、個人的にいつも考えていることです。……(『オーバー・ザ・シネマ——映画「超」討議』)

お互いがお互いの思考を刺激し合う様子が伝わってきて、読み手も一緒になって映画の「いま」を捉えるためのフレームワークをどう考えるんだ、となって、一緒に議論を進めていくような感覚になります。

この本をミックスCDにたとえるなら、ULTIMATE 4THの「RUBBER FUNK」です。ULTIMATE 4THは、TOKNOW, DJ大自然, 仲山慶, 志水貴史からなるDJユニットです。

彼らは、かつて渋谷で開催されていたファンク・ミュージックのクラブイベント「IN BUSINESS」の若手DJ(とはいっても、結構いっていると思いますが)でした。このイベントには、MURO 、DJ JIN、DEV LARGEなど、日本のヒップホップの黎明期からシーンを支えてきたDJもプレイしていました。

なんだかんだいって、DJは、やはりレコード持っていてナンボの世界なので、早く始めて多くを持っている方が有利に決まっています。そして、やはり、「隠れた名作」的なレコードも先に発見されてしまっています。

そんな先人たちの圧倒的な手持ちレコードに対して、どうやって対抗するか、後追いのDJたちは考えていると思います。本作から、同時代のバンドの音源を入れたり、つなぎを工夫したりしていて、彼らのいろいろなチャレンジが垣間見れて面白いです。

で、ハナシ噛み合ってます?
わたしは、日常的にあまりニュースを詳しく見たり聞いたりすることはしていません。新聞は一社と契約していて、朝の通勤時に、アプリでさっとトピックを確認するだけです。それは、嫌なものを目にすると、一日中気分が悪くなるため、深く考えないようにするためです。

ただ、最近報道されている政治の場でのやりとりに対して、ある種の不気味さを感じています。

連日報道されていることなので、ここで具体的に書きませんが、ある人の行動が公文書として記録に残っており、本人にこれは確かか?と聞いてみると、「記憶にございません」と答え続ける。捜査の関係でそのように答えざるを得ないということもあるのでしょう。真偽はまだ分かりません。

ただ、国会という場所は、国民みんなの利益になることをやりましょうということが前提だと思いますので、多くの人が知りたい事実を検証するところで話が噛み合わないのは、何だかヘンだし、不気味に感じてしまうのです。

今週観たドキュメンタリー映画『好敵手——世紀のテレビ討論』は、1968年の米国大統領選挙の際、abcテレビの番組において、共和党側・民主党側それぞれの論客が10日間にわたってディベートをした舞台裏を追ったものでした。

最初のうちは、政策について、冷静に——ところどころ皮肉などは入りますが——論じられていくのですが、終盤になってヒートアップし、人格攻撃までするようになります。それらは、全く論理的でない言葉のやりとりでした。

ハナシが噛み合っていない状態は、大抵、冷静さを欠いているときです。淡々と答弁していたとしても、話が噛み合っていなければ、どこか冷静さを失っている(たとえば、答弁する人が所属する組織とか)という状態なのではないでしょうか。

さいごに、慣れない時事について考えて、アタマが痛くなってきました……来週は、どんなカルチャー出会うのでしょうか。

以上、今週のカルチャー週報でした。





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