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エログロナンセンス―表現の行く末は何処(いずこ)へ

阿佐ヶ谷のとある古本屋にて、一際目立つ表紙の漫画を見つけた。

中身を見ずとも、キッチュで悪趣味な内容であることは、自明である。一般的にこうした著書は、露悪的なものとして、忌み嫌われるが、私にとっては、精神安定剤みたいなものだ。本質的にソリチュードな人間でしかなし得ないカタルシスである。

久しぶりに、所謂「ジャケ買い」を行い、自然と気持ちは高揚した。

作者の「宮谷一彦」に見覚えがある。今は便利な時代だ。誰しも目の前の小さなモノリスで、膨大な情報のアーカイブから必要なものを入手できる。

勿論、直ぐに答えが出た。

はっぴいえんど2ndアルバム『風街ろまん』のジャケットを手掛けた人物である。

この緻密なタッチの絵は漫画家によるものだったのだ。1stアルバム通称『ゆでめん』も林静一が手掛けているため、はっぴいえんどとガロ系の漫画家(『性紀末伏魔考』も青林堂出版)は切っても切れない関係であることがわかる。

そういえば、以前読んだレコードコレクターズの増刊号に、この話の詳細が語られていたのを思い出した。

2枚目の『風街ろまん』(71年)は、メンバーには大変評判が悪かった。4人の顔を配したジャケット。アート・ディレクターは特にいなかった。今回も人気のある漫画家を起用して、今で言うスーパー・リアリズムの絵のような美しい路面電車のジャケットを作ってもらおうと、僕も同行して三鷹の宮谷一彦氏のアトリエを訪ねたのだが、シンプルなのが良いという氏の一存で、メンバーの顔のジャケットに急遽変更になったのだ。宮谷さんによる路面電車の絵は中ジャケットで使うということに決まった。
レコードコレクターズ増刊
-はっぴいえんどの風が吹いた時代-
『はっぴいな日々』

中ジャケットも素晴らしいのは確かだが、表ジャケットに、名盤の空気感を強く感じるのは私だけではないはずだ。今となっては名ジャケットの筆頭だろう。幼少の頃から聴いてきたアルバムとの繋がりがわかり、一層この本への愛着が湧いた。

肝心の本の感想に移ろう。

この本は、エログロナンセンスな芸術作品である。

絶望感や焦燥感、内省的であり、とにかく苦しい。

映画的様式を拒否し、一枚絵として絵を描いた作者による禍々しい作品が十篇収められている。

それぞれのコマが完成度の高いものとなっており、幻想絵画からの影響も見て取れる。

中でも衝撃的な場面が141頁の男の妊娠だろう。それを理論的に説明しているのが凄まじい。

怪奇・奇想漫画であることは確かだが、最初に露悪的なものと揶揄した自分が間違っていた。これは立派な芸術作品である。

自省も込めて言うが、こうしたエログロナンセンスのような、アンダーグラウンド・カルチャーというのは、度々誤解を招く。一例を挙げよう。

オリンピック開催前に起こった小山田圭吾に対してのキャンセルカルチャーについて、渋谷系を鬼畜・悪趣味なものとして批判したブログがあった。

これは、サブカルアングラの混同などから起因する間違いである。

さらに、この時期に、90年代の鬼畜系・悪趣味ブームの話題が挙がったのは記憶に新しい。

鬼畜系は、悪趣味系サブカルチャーのサブジャンルであり、1990年代の鬼畜・悪趣味ブームにおいて電波系やゴミ漁りで知られた鬼畜ライターの村崎百郎が自分自身を指すのに提唱した造語である。
Wikipedia

こうした90年代カウンターカルチャーとしての鬼畜系も、2021年に再度批判の対象に晒された。

90年代サブカルについて無責任な放言が跋扈することに強い危惧を持ったロマン優光が、2019年に、著書『90年代サブカルの呪い』(コアマガジン)で鬼畜系サブカルの出自と存在意義、および文脈が失われた過程と語義上の留意点について次のように総括している。

90年代というのは不思議な時代です。(中略)建前が道徳的な機能を失っているのに、それはなかったことにして表面上だけ建前を優先する世界。綺麗事が蔓延し、綺麗なものしかメディアに出すことを許さない一方で、本音の部分では差別意識と搾取精神に溢れている。そんな時代です。当時はネットがそこまで発達していない状況で、一般の人が汚い本音を世間に撒き散らせる環境はなかったため、表面上は建前でコーティングされてました。(中略)
わかりやすく言うと、こういった社会に対して「そんな風に建前を言っているけど、本当は汚い欲望でいっぱいじゃないか。世界はこんなに汚いもので溢れている。お前らが覆い隠そうとしているような人間だって自分の人生を生きている」という風な異議申し立ての側面があったのが、「鬼畜系」だったのです。
「鬼畜系」というものは90年代社会に対するカウンターであり、それは当時の状況の中で一定の意義があったものでした。しかし、同時に当時の人権意識の低さから自由ではなかったし、本人たちの意図してない受け入れられ方を多くされていくことで、瓦解していったのです。
ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、30-31頁
ここで忘れてはいけないのは、「鬼畜系」はあくまで反道徳性、犯罪性の強いものを考察してたり、語ってたりするものを消費する文化であって、表面上に見られる読者へのあおりも基本ポーズであり、犯罪を犯すこと、反道徳的行為を実行すること自体を指していたり、それをみだりに推奨していたわけではないということです。そこは注意するべきところだと思います。
ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、12-13頁

また「鬼畜系」の派生元となった「悪趣味系」についてロマンは次のように定義した。

90年代サブカルにおける悪趣味系というのは「価値のないもの、取り上げるに値しないものと見なされているものを、俎上にのせ再評価していくこと」をポップな文脈で楽しむという行為と、薬物、死体、殺人者などの情報を即物的に楽しむという行為の二つが混合されたムーブメントです。(中略)視点の位置を変えることで対象に新しい意味を付加していき、それをポップなものとして提示するのが通例であり、「世間的に悪趣味な存在と見なされているもの」、「それを好むと世間的に悪趣味だとみなされるものを好むこと自体」をその対象に選んだのが悪趣味系ということです。悪趣味なことを実践していくことが目的ではなく、世間では悪趣味とされているようなものや行為を取り上げることに主眼がおかれているムーブメントだと考えれば、そう間違ってないのではないでしょうかね。
ロマン優光『90年代サブカルの呪い』コアマガジン、2019年、20-21頁

ぜひ、今回の記事を読んだ方には下記の記事のまとめも併せて読んでいただきたい。

日本的な「臭い物に蓋をする」といった文化が、去年の夏に、キャンセルカルチャーの潮流を生んだ。

エログロナンセンスなどの昭和初期から続くアングラな文化も、このままでは表現の規制によって、消失してしまうように思える。

悪い意味で"いい子ちゃん"が増えた現代に、風穴を開けるようなカウンターを私は望んでいる。

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