見出し画像

Uターン就職したはずの私が上京するまでの顛末

地方出身の私は大学進学を機に首都圏に移住した。そして大学を卒業すると同時に地元に戻って就職した。
ありふれたUターン就職のパターンだと思うが、その5年後に上京し、大きく生活が変わることになる。
私は地元(地方)にも東京(首都圏)にもそれぞれの良さがあると思っているが、選び直しの効かない人生で何故このような選択をしたのか、この機会にまとめておきたい。
もし地元からの上京、Uターン、地方移住等をお考えの方がいれば、一例としてご参考にしていただければと思う。そうでない方も1人のありふれた人間がどんな過程を経て人生の分岐点を選択するのか、そんな人生模様をお楽しみいただければと思う。

1.大学受験編

高校生活

私が住んでいた地元は僻地とまではいかないがそれなりのレベルの田舎だった。地元の中学を卒業した後は公立高校に進学し、部活や勉強でクタクタになりながら、基本的には自宅と学校をひたすら自転車で往復する日々を過ごしていた。高校生らしい遊びやお出かけはほとんどせず、たまの休日も公園で遊んだりプールに出かけたりして過ごしていたため電車の乗り方も知らないレベルだったが、それに対して不満を抱くことはなかった。
そうこうするうちに大学受験を考える年齢になり、先生からはあたかもそれが無難な選択かのように国公立大学への進学を推奨された。地方の公立高校あるあるだと思われる。

選択

もちろんその中でもしっかりと情報を集めて私立大学を志望する生徒も一定数いたが、AO入試や推薦という制度すら直前まで知らないレベルの情弱だった私は特に深く考えることもなく、とりあえず国公立大学の中から選べば良いのかと思っていた。経済系の学部があり、自分の学力レベルを勘案したなるべく偏差値の高い国立大学...と絞り込んでいった結果、最終的には首都圏にある大学を第1志望に決めた。
その時なぜ地元エリアの大学に絞らなかったのか、なぜ首都圏の大学に決めたのかははっきりとは思い出せない。実家から通うのか一人暮らしを始めるのかを含めて、大きく異なる人生になっていたと思うが、本当に軽い「ノリ」で判断していたのだと思う。

結果としてこの意思決定自体は悪くなかったが、この当時から土壇場で適当に物事を決めてしまう一面があったことが窺える。この時たまたま上手く行ったことが、この後の悔いが残る選択に繋がってしまったのかもしれない。

2.就職活動編

新天地

首都圏での大学生活は、ひたすら部活と勉強に打ち込んで過ごした余白のない高校時代とは異なり、自由でのんびりとした生活になった。幸いにも人間関係に恵まれて様々な友人と出会い、大学生の余りある時間を活かして色々な経験をすることができた。多少の理不尽や不運に遭遇することもあったが、部活の厳しさに比べれば大したものではないと感じていた。
この頃には都市での便利な生活に慣れきっており、漠然と東京で働ければいいかなという想いを抱いていた。地元にも親しくしてくれる友人はいたものの、多くの知人が東京に住んでいたことから「卒業して社会人になってもこの環境を維持したい」と考えていた。

志望軸

そんな中始まった就職活動では「転勤がなくハードワークすぎず営業をやらなくて良い職種」という、就職で苦労する典型的な大学生の志望軸で就活をしていた。在学中は「必要最低限の単位を取り、サークル活動をし、アルバイトをする」という普通すぎる日々を過ごしており、当時意識高い系と呼ばれるような学生がやっていたインターン・留学・資格取得のような就活生としてプラスポイントになりうる活動に一切手を伸ばせていなかった。意識高い系学生のことはむしろ尊敬していたが、目先の遊びを優先して何かを始めることができない状況が続いていた。
このように普通すぎる要素で満たされていたにも関わらず、文系大学生の大半が吸い込まれていく営業という職種に対して、私はかなりの恐れを抱いていた。元々アルコールにアレルギーがあったこと、歳上のおじさんと仲良くなることが苦手だったこと、社会人と接する機会がなく営業という職種に対する解像度があまりに低かったことなどが影響し、ひたすらに営業をやらなくて良い働き口を模索していた。

苦戦

そんな私がスイスイと希望通りの内定を獲得できるわけがなく、想定よりも現実が厳しいことに気づいた頃にはもう4年生の4月がスタートしていた。とにかく応募企業を増やさなければと焦り、ある程度軸に合致している大企業ならどこでも良いとひとまず応募してみる方向性にシフトした。
その甲斐もあり、5月末頃にようやくある企業の内定を獲得することができた。その企業は元々志望していた業界・職種ではあったが、勤務地が名古屋であることがネックとなっていた。
この時、私はわかりやすく焦っていた。減っていく応募企業の残弾、次々に就職先を決めていく同級生たち、迫り来る夏休み。本来慎重で堅実な性格なはずが、大学受験の時にも出た「土壇場で急に楽観的で適当になる」一面がここでも出てしまった。
「名古屋は地元からも近いし、こちら(首都圏エリア)に戻りたくなったらいつか転職すれば良いし、希望していたジャンルの企業ではあるからまぁ良いか。」
そんな適当な判断で内定を承諾することを決め、就職活動を終わらせた。

葛藤

その後、入社までの期間は見て見ぬふりを続けていた。
「東京の会社じゃなくてよかった?」
「東京に転勤とかもないんだよね?」
知人から問われるたびに自分の中でも「大丈夫なのか?」という思いは膨らんだ。内定を承諾した直後から、自分でもこれはマズいという思いが既にあった。
とはいえここから就職活動をやり直すことは現実的ではないし、そんな事より目の前の卒業までの時間をどう過ごすか、どんなイベントや旅行を企画しようかという事を考えるのが優先だ、と自分自身を洗脳することで不安に蓋をして、今を楽しむという選択を取った。

このような経緯で意図せずしてUターン就職することになった。Uターン就職を選ぶ事例としては珍しいパターンだとは思う。とはいえ地元が好きな気持ちもあり、そもそも応募をしている時点でそれでも良いかなと思っている節もあったのだと思う。
今となってはこの選択が必ずしも間違っていたとは言い切れないような気もするが、この選択が後々の自分を苦しめることになった。

3.転職活動編

後悔

就職を機に地元に戻り、名古屋に通勤する生活が始まった。懸念していた不安は現実のものとなり、東京で就職しなかったことを後悔する日々が続いた。一度そう思い始めてしまうとそれを肯定するような情報ばかり集めてしまい、益々その想いを強めていった。
更に良くなかったことに、社会人生活は土日休みではなく不定休みという勤務体系でのスタートになった。所属している職種自体は土日休みが基本線だったが、1年目は現場での研修があるため平日・土日関係なくまばらに休みが入るという生活リズムになっていた。

入社した会社は今となっては制度が色々と是正されたため悪くない会社だとは思うが、当時はお世辞にもホワイト企業とは呼べないようなルールがあり、それもこの思いに拍車をかけた。

ポリシー

私にとって1番辛かったのは、どうしても機会損失が発生してしまうことだった。遠隔地+休みも異なる状況では関東に住む友人とのスケジュール調整はいよいよ難しくなり、自分の工夫次第ではどうにもならないことが増え、確実にストレスが蓄積していった。
わかりきっていたことながら、物理的に不可能なことが増えると少しずつ疎遠になっていく人が増えていった。それで疎遠になるような人間とは関係性を続ける必要がないという考え方も理解できるが、私は学生時代から「人との関係性を大切にする」ことをポリシーにしており、そのために転勤がない会社を選んだはずだった。そんな思いと正反対の選択をしていたことに改めて気付かされることになった。

今思えばかなり他人に依存した判断軸だと思うが、当時は自分が大切にしている価値観と人生の方向性がズレてきてしまっていることに対するショックが大きく、取り返しのつかない現実に対して絶望的な気持ちになっていた。

転職活動 1次ラウンド

そうなるとやはり転職という選択肢が視野に入ってくる。すぐに転職するとしても1年は働かないと難しいと考えて、入社2年目になってすぐのタイミングで初めての転職活動に踏み切った。
とにかく東京で働くこと・土日休みであることを条件としていたが、かと言って仕事はどんなことでもやるというところまでは妥協することができず、コロナ禍も逆風になり、結果として転職活動は失敗に終わった。今思えばこの時もし転職していても、キャリア的な意味でも生活的な意味でもうまくいったとは思えず、必然の敗北・撤退だったと思う。

転職活動 2次ラウンド

コロナ禍を経て、次に転職活動を再開したのは入社4年目の春だった。この時には土日休みに戻っており、名古屋で親しくしてくれる人も増え始め、じっくりと将来を考えることができるようになっていた。
業界の将来性や自分の年齢、キャリア、ライフステージなど様々な要素を踏まえて転職活動をするかどうかを検討したが、やはり上京したいという気持ちが依然として残っており、その思いが転職する決意の後押しになった。「やらずに後悔する」ことを恐れる気持ちもあった。
このまま現状を変えずにここで暮らし続けるのも良いと考える自分もいたが、いざ身動きが取れない年齢になった時に「やっぱり上京しておけばよかった」と後悔することだけは避けたかったのだと思う。

3ヶ月ほど転職活動を続けたが、結果として転職には至らなかった。ある企業に内定を貰うことができたが、条件面に多少の難があった上、そのタイミングで部署異動になったことで会社に残った方がキャリアとしては有益という状況に変わったという背景もあり、悩みに悩んだ末に内定を辞退することを決断した。
内定承諾の是非を回答する締切日前日のことは、今でもはっきりと覚えている。実はギリギリまで悩んだ末、深夜に一度承諾のメールを送っている。しかし、これまでの人生では大きな意思決定をした後には良くも悪くもスッキリしたような感覚になることが常だったが、その数時間に目が覚めた時にまだモヤモヤとした感覚が残っていることが引っかかった。一度決めたら変えないタイプの自分がまだ揺らぐということは本意ではないのだと考え、明け方に改めて辞退する旨のメールを送った。内定をいただいた企業には申し訳ない気持ちもあるが、この時の判断は間違ってなかったと思っている。

停滞

内定を承諾しなかったことで振り出しに戻ったのと同時に、転職活動を経て想定していた以上に自分の理想と現実にギャップがあることを実感したことで、一旦転職と上京を断念してもう一度名古屋でキャリアを積みつつ生活することを決意した。年月が経てば経つほど東京にいる知人とは疎遠になることもわかっていたので前に進めないこの決断は辛い部分もあったが、転職活動が低調に終わったことで「自分に実力がないから仕方がない」と自分を納得させることができた。

また、この時25歳だった私は、漠然と「28歳頃に結婚できたらいいな」と思っていた。交際相手はいなかったが、最終的にどこに住むのかが決まらないと相手を探す活動を始めることすらできない。将来的な「働く会社・住む場所・結婚相手」の全てが未定の状態であり、まず会社を決めることから始めるのがスムーズだったが、会社を決めるための転職活動はしばらく再開できない(再開しても意味がない)ため、何も動き出せるものがないという状況に陥った。

婚活

最終的に上京するかどうかも決まっていない状況は続いていたが、何もしなければ何も得ることができないという考えに囚われていた私は、色々と未確定な状況ではあるものの、まずは結婚相手を探す活動に精を出すことにした。
紆余曲折を経たが、この時ほとんどのリソースをここに割いたことで幸いにも良い巡り合いがあり、早々に名古屋で同棲を始めることになった。転職して上京したい考えがあることは当初から伝えていたが、「どうなるかわからないなら、まずやってみるしかないんじゃないか」というありがたい言葉をいただき、まず一歩踏み出す決断をすることができた。
その一方で相手はかつて東京に住んでいたものの就職をきっかけに地元に帰るという選択をしており、境遇は似ているものの価値観の相違は無視できないほどにあり、依然として自分自身の問題は残ったまま新生活が始まることになった。

分岐点

前回の転職活動から1年半が経過した26歳の時、大きな決断をする時が来た。これまでずっと上京・転職を志向し続けていたが、自分の年齢的にも交際相手との関係的にも、決着をつけるべきタイミングが来ていた。キャリア的な観点でもこれ以上年齢を重ねると若手の利点を活かして未経験業種で転職することが難しくなる局面でもあった。

この頃、私の中では価値観が変化してきている部分があった。「住めば都」とはよく言うが、徐々に名古屋での生活に慣れて快適だと感じ始めていた。人間関係も安定し始め、名古屋でこのまま生活することも悪くないと思うようになっていた。
依然として東京に住む知人同士の集まりに参加できなかったり、東京でしかイベントが開催されなかったりという面で凹むこともあったが、交流が続いている人とそうでない人との境界がはっきりしてきており、ある意味では諦め、ある意味では割り切りができるようになってきていた。
ただし、長期的なキャリア形成という観点では転職が有効であることが明らかになりつつあった。職種的に転職先の候補になる企業の大半は本社が東京にあるため、転職=上京になることはほとんど確定的であった。

決断

熟考した末、転職活動に踏み切ることを決めた。最後に決め手になったのは挑戦しないで終わりたくないという気持ちだった。生活的な意味でもビジネス的な意味でも、日本の最先端である東京で色々な経験してみたいという思いから、再び活動に着手することになった。
一方で前回そうだったように、上手くいくとは限らないこともわかっていた。むしろこれまでの経験から考えると、上手くいかない可能性が高いと思っていた。その時は自分の実力を認めてありがたく今の会社で働かせてもらい、名古屋で人生を過ごすこともありかなと考えていた。

決断に至るまでには、交際相手とも会話を重ねた。先方が持つ1番の理想は名古屋で暮らしていくことだったと思う。それでも「それぞれの人生だからまずは挑戦してみてその後のことはその時考えれば良い」と整理をつけることができ、3回目の転職活動をスタートさせることを決めた。準備を進める中で相手側も将来的なキャリアを踏まえて転職&上京にトライすることが決まり、結果的に2人同時に転職活動に臨むことになった。

転職活動 3次ラウンド

そんな中臨んだ3回目の転職活動は概ね苦戦が続いたが、最終的には内定をいただくことができ、上京することが決まった。全てが思い通りに進んだわけではないものの、今回は納得した上で内定承諾の返事をすることができた。相手側も同時期に転職先が決まったことで、揃って上京して東京に移り住むことになった。
前進しているようで進まない、行ったり来たりをする5年間だったが、このような経緯を経て27歳の春に上京することが決まった。
(転職活動については、ご関心があれば以下の記事をご参照ください。本記事を読み進める上では読み飛ばしても支障ありません。)

4.新生活編

上京のはなし

大学を卒業してから5年の月日を経て、首都圏へ戻り、東京に住むことになった。20代のうちは都心の利便性をフルで享受したいと考えて、家賃は高くなるが都内の田園都市線沿線に住むことを決めた。「上京のはなし」の締めとして、上京して実感したことを整理したいと思う。

機会の差

東京と地方(地元)の最も大きな違いは「アクセスできる機会の多寡と種類」にあると思う。数も種類も東京は圧倒的に多いが、東京にはなく地方にはある機会も存在すると感じている。
数という面でわかりやすく差が出るのはイベントの開催数である。アーティストやアイドルのコンサートもそうだが、ビジネス関連のセミナー、名産品や旬の飲食物を集めた企画も東京では毎日のように開催されている。
また、人との接点の数にも差が出る。新しい人やコミュニティとの出会いもそうだが、各地から人が集まる場所であるがゆえに、元々の知人と再会する機会も多くなる。
その他、本社を置く企業が多いため働き口の数や選択肢が多くなり、飲食店や物販店等の母数自体が多いため食べ物・飲み物や雑貨との出会いも多くなる。

総じて、東京にはコト・ヒト・モノとの接点が数多く用意されていると思う。自分自身の意思や行動次第で人生を変えられる環境が東京にはある。これが東京の素晴らしさであり、上京することの利点であると感じる。
一方、東京には少なく地方には多いものとして、明確な目的がない時に人と集まる場所、用事と用事の間を無為に過ごせる空間が挙げられると思う。土地に余裕があることや自家用車を所有する人が多いことに起因するが、気軽に集まって落ち着いた場所で人と話すことができたり、ちょっと1人で感傷に浸って考えごとをしたりする機会を提供する空間がある。そんな自宅以外の空間があることが、地方の良さであると考えている。

都会と田舎

よく「東京は何でもある素晴らしいところ、地方は何もない」と批判する人や自虐的に語る人を見かけるが、どちらにも住んだ人間としてその意見には賛同できない。前述の通りアクセスできる機会に差があるのは確かだが、それぞれに善し悪しがある。人の混雑が苦手な人は東京には住めないし、車の運転ができない人は地方には住めない。東京は家賃が高いし、地方は賃金が安い。
あくまで中立的な人間の意見として捉えてほしいが、あらゆる機会を望む人は上京することを選択肢の1つとして考えてほしい。ただしいくら色々な機会に恵まれていると言っても、能動的に動き出さなければ何も得ることはできないことには留意してほしい。意思あるものには価値を提供するが意思なきものには何も与えない、そんな温かさと冷たさが共存しているのが東京だと思う。

上京して

冒頭で触れた通り、私が住む街は東京の中でもそれなりに活況なエリアに位置する。最寄駅には電車が2,3分おきに来るし、駅前は北口にも南口にもお店が溢れている。所謂チェーン店も一通り揃っている一方で、個人経営のディープな店もしっかりとした存在感がある。
そんなエリアは騒音がつきものというイメージもあると思うが、駅前を離れれば住宅街が広がっており、閑静そのものである。東京全般がそうだというわけではないが、住民が多いからこそしっかりとした棲み分けがあるように感じる。
家賃は当然のように高く、同条件で比較すると体感的には名古屋の1.5〜2倍のコストがかかる。そんなネガディブな面も勿論あるが、総じて東京が持つ魅力を味わう日々を過ごせているように思う。
ただ、まだこの街には住み始めたばかり。これまで地元や名古屋で見てきた春夏秋冬の記憶は確かに脳裏に残しつつ、この街で新たに出会う発見を楽しみながら日々を過ごしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?