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【子ども達の3.11】 Vol.02 Akari(仙台) 「津波で亡くなったお父さんへの想いを話しても良いんだと思えるようになりました」

来春、東日本大震災から10年の節目を迎えます。
次世代に、未来を創造するバトンをつなぐ為に、未曽有の大震災を乗り越えた東北の子ども達のストーリーをお届けします。
Akariさん(当時13歳)は、仙台港で働いていたお父さんを津波で亡くしました。

3月10日、父の誕生日

お父さんは何でも相談できる存在でした。

兄と年齢が少し離れていたこともあり、どこに行くにも父は私を連れていきました。いつも一緒だったので、母でもなく、兄でもなく、いろんな話を父にしていました。

3月10日は、そんな父の誕生日でした。

普段、父の誕生日をみんなで盛大に祝うことはなかったのですが、その年に限っては家族が全員集まっていたこともあり、みんなで焼肉を食べに行くことにしました。

「お父さん、幸せそうにしてたわ。」

母はあの日を振り返って、そう言うことがあります。
わたしも、その時のお父さんの笑顔が今でも記憶に焼きついています。

翌日、3月11日。学校の下校中に大地震が起こり、兄が私を迎えに来てくれました。家に帰ると家の中は荒れていて、ガスも止まっていましたが、少し内陸だったので津波の心配はありませんでした。

しかし、その日、仙台港で働いていた父が帰ってくることはなく、連絡も途絶えてしまいました。

「どこかできっと生きている!」

そう信じて、私たち家族は待ち続けました。


父との再会

父はサッカークラブの団長もしていたので、クラブの子ども達の間では、父が見つかったという噂が流れたり、父の姿を見たという噂もあり、一喜一憂する日もありました。

震災から1ヶ月以上経った4月、父が安置所にいることがわかりました。

安置所から帰ってきた母は、泣きながら一言
「お父さんだった…。」
と言い、それ以外は言葉になりませんでした。

父だということは顔では判別できず、着ていた作業着と持っていた携帯でわかったそうです。

再び安置所に行き、母、兄、わたしと順に父の顔を確認することになった時、一番初めに父の顔を見た母は泣き崩れて戻ってきました。

いよいよわたしの番になると、知り合いのおじさんに「この子に見せてはダメだ」と止められ、結局、父の顔は見ることができませんでした。

だからこそ、今も父の笑った顔しか思い出せずに済んだのかもしれません。

父のお葬式で、わたしは手紙を読みました。どんな内容だったのか覚えていません。手紙はとってあるけれど、読み返すこともありません。

父の親友も手紙を読んでくれて、「死ぬの早すぎだろバカ!」と泣いていたのが印象に残っています。

父のお棺を抱え、家族みんなで外に出ると、公には知らせていなかったのに、サッカークラブのメンバーや職場の方々、父の友人など、学校の集会ぐらい、多くの人が集まっていたことに驚きました。

父は、本当に沢山の人に好かれていたんだと思います。

Support Our Kids という ”居場所”

父が居なくなってからは、「なんでお父さんが?なんで?」ということばかり考えていました。

わたしの家は海岸近くではないので、周りに津波で亡くなった人はほぼいません。すると、学校では、

「あの地域の人達は大変だね。」
「津波で亡くなった人もいるみたい。」

という何気ない会話が聞こえてきました。

「わたしもそのひとりなのに、、、。
 でも、可哀想な人と思われたくない。」

知られて同情されたくない、自分が否定されているような惨めな気持ちになりたくない、複雑な感情がこみ上げ、「わたしの父も津波で亡くなった」ということを人に言えなくなっていきました。

言わない方がいい、と思っていました。

しかし、2013年に参加したSupport Our Kidsには、安心してわたしの体験を言葉にできる "居場所" がありました。

事前研修の日に、宮城、岩手、福島から集まった同世代の中高生たちと、それぞれの被災体験を共有したことで、わたしが体験したことやお父さんへの想いを口に出して良いんだ、と思えるようになりました。

プログラムで訪問したカナダのトロントでは、日系カナダ人の方々にお世話になりました。第二次世界大戦、日系人は過酷な労働や差別など、厳しい状況を乗り越えて今に至った、という彼ら自身の体験したお話にとても勇気づけられました。

また、大自然の中でのサマーキャンプに参加し、現地のたくさんのカナダ人たちと一緒に1週間過ごしたことも楽しい思い出です。

そしてなによりも、Support Our Kidsプログラムに一緒に参加した仲間たちとの出会いは、わたしにとってのかけがえのない宝物となりました。


キャンプ2013

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わたしの今

10年経った今でも父との思い出は、私が13歳の時で止まっています。23歳になった今の自分と父が一緒にいる想像がつきません。

あれから甥っ子もできて、家族は賑やかになりました。
「父も孫が見れたらよかったのに。」
甥っ子にもおじいちゃんがいないのはかわいそうだな、と思うことがあります。

あれから家族みんなで3月10日を祝うことはありません。
でも、お父さんが近くにいることを信じて、これからも私らしく、元気に生きていこうと思います。






仙台港の被害の様子


ご支援ありがとうございます!いただいた支援金は、被災した子ども達の自立支援活動に充当させていただきます。どうぞよろしくお願い致します。