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「シン・ウルトラマン」が楽しみで楽しみで、そして、すごく怖かった 

注意:この記事には映画「シン・ウルトラマン」のネタバレが含まれています。鑑賞後の閲覧をお勧めします。


 円谷プロダクションが企画・制作してきたウルトラシリーズは、地球人類が怪獣や異星人といった様々な脅威に遭遇しつつも持ち前の知恵と勇気、そして光の巨人「ウルトラマン」の助けを借りてそれを乗り越えていく物語群。1966年の「ウルトラQ」から今年7月に公開予定の「ウルトラマンデッカー」まで様々な作品が作られている。
 そして2022年5月13日公開の映画、「シン・ウルトラマン」。1966年に放映された初代「ウルトラマン」を現代日本を舞台にリメイクしたような映画だ。

 まず、私がこの映画を楽しみにしていた理由を記したい。
「怖かった理由は?」と思われるかもしれないが、先にこれらの前提を共有しておきたいのだ。

楽しみな理由1:CGメインのウルトラマンの大作映画だから


 「シン・ウルトラマン」は、企画・脚本に庵野秀明、監督に樋口真嗣というタッグでお送りする「ウルトラシリーズ」の大作映画だ。ウルトラシリーズはこれまでテレビシリーズの劇場版といった形で映画化されてきた。しかしこの「シン・ウルトラマン」は、それらの作品よりも遥に予算をかけ、斎藤工や長澤まさみといった一般向けのドラマや映画に(「一般」向けって具体的にどういうことなのか私もよく言語化できないが、まあ民放のゴールデンタイムにやっているようなものに近い感じだと思っています)多く出演される俳優をメインにキャスティング。そして登場する怪獣や異星人はTVシリーズの着ぐるみと異なり、フルCGで描かれる。2013年に公開され、日本の怪獣・ロボファンにも強い衝撃をもたらした「パシフィック・リム」のようなフルCGでの怪獣表現に、ついにウルトラシリーズが挑戦するのだ。


 基本的に人間ほどのサイズで、大きく見せることが難しく(ここが監督たちスタッフの腕のみせどころになるのだが)可動域を制限される着ぐるみではなく、フルCG。
 着ぐるみのサイズに合わせるためハリウッド映画のそれのように大きく細かいところまで作りこむことが難しく、「模型にしか見えない」「チャチ」「なにおーっ! そこがいいんだろ!」と言われることも少なくないミニチュアではなく(一部のシーンでは使われているがメインではない)、実景やCGのステージとの融合。

 もちろん私も、着ぐるみとミニチュアを駆使した特撮映像作品に小さい頃から親しんできた人の一人である。しかし一方で「やっぱり着ぐるみ・ミニチュアにしか見えない」と思っていたことも事実である。VFXに予算と技術をつぎ込んだハリウッドの大作映画やゲームのムービーを見ながら「完全に実写!」「技術の進歩最高!」と興奮している。だからこそ、ウルトラシリーズが「はいはい、どうせCGならなんでもできちゃうんでしょ」とさえ言われる力を手にしたらどれほどすごいものが見れるのか、楽しみにしていたのだ。


楽しみな理由2:庵野秀明&樋口真嗣監督の作品だから

 先も述べたが、この映画の企画・脚本は庵野秀明、監督は樋口真嗣。アニメや特撮をちょっとでもかじったことがある人なら、この名前に聞き覚えがあるだろう。

 庵野秀明は、今の日本を代表するトップクリエイターだ。「トップをねらえ!」や「不思議の海のナディア」といったアニメ作品を送り出してきた。そして氏の一番の代表作はと聞かれたら間違いなく私はこう答える…「新世紀エヴァンゲリオン」ことエヴァ。1995年に放送されたエヴァは社会現象を巻き起こし、全国にファンを生み出した。エヴァに夢中なオタク達はグッズを買いあさったり、ネットで二次創作を発表したり、作品の謎やキャラクターの描写について考察したり…とにかくエヴァに没入していった。多くの人間がエヴァに囚われた。2021年公開の「シン・エヴァンゲリオン」の時には、多くのオタク達がエヴァに対する熱い思い、長きにわたる因縁について思い思いの言葉を口にしていたのも記憶に新しい。
 私はリアルタイムでエヴァを観れなったし、当時から続く熱狂も体感したのはほんの一部だけ。

 それでも、「使徒やゼーレ、死海文書」といった世界の謎に興味を持った。
 「特撮好きな庵野監督を始めスタッフによるオマージュ」の解説から「実相寺監督の作品を観てみようか」と昔の特撮作品をあさるきっかけになった。
 「主人公シンジの直面する困難、周囲のキャラとのディスコミュニケーション」に心揺さぶられた。
 「ヤマアラシのジレンマ」という単語に「そうだよなぁ。わかるよその気持ち」と大いにうなずいた。
 旧劇こと「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」の「Komm, süsser Tod〜甘き死よ、来たれ」が流れる人類補完計画のシーンでおいおいと泣いた。すっかりエヴァの「沼」に沈んでしまったのだ。
 そして作品群の内容から外れた、庵野監督個人の話にもすっかり惹かれてしまった。子供の頃からアニメや特撮に親しんできたオタクが、仲間とともにチームを立ち上げ、アマチュアからプロになる。スタジオジブリ作品で知られる宮崎駿監督という師匠をもち、ライバルのクリエイター達と切磋琢磨。そして自身の作品で世間に衝撃を与える。そしてまた多くの人々が魂を奮い立たされ、クリエイターとしての道を歩みだす。

 子供のころから落書きという名のイラストを描いたり小説を書いたことがあるオタクの自分には、このサクセスストーリーは刺激が強すぎた。(だからといってプロのクリエイターの道にすすむことはなかったのだが…)

 樋口真嗣は、今の日本を代表するトップクリエイターだ。庵野監督の友人でもある樋口監督は、多くの特撮作品やアニメに携わり、数々のとってもかっこいいシーンを生み出してきた。そんな氏の一番の代表作はと聞かれたら間違いなく私はこう答える…「平成ガメラシリーズ」

 1960年代に大映によって製作された怪獣映画「ガメラシリーズ」を1990年代にリブートした3つの映画だ。
 ギャオスやレギオン、イリスといった人類に対する殺意の高い凶悪な大怪獣。そしてそれに立ち向かう若くて優秀な科学者。プロ意識の塊で非常時に頼りになる自衛隊の大人達。そして傷つきながらも地球のために戦うヒーロー怪獣、ガメラがとにかくかっこいいぃ!スライドしながら火球を撃つ「樋口撃ち」に痺れます。
 「機動警察パトレイバー」で知られる伊藤和典氏による緻密な脚本も、金子修介監督によるテンポが良くて深みがあって粋な人物の演出も最高。そして樋口真嗣監督による特撮もすごい。いや、すごいというレベルではない。映像の技術が進んだ今の時代でも輝きを失っていないオーパーツだ。
 樋口監督によってしっかり決められた絵コンテに沿って作られたミニチュアセットは、ミニチュアだと頭で理解していていても「本物だ」と錯覚する。怪獣だって、着ぐるみを動かしているだけ、作りものだと知っている。しかし、抜群に優れた演出は着ぐるみを「50ⅿサイズの着ぐるみ」に錯覚させる。「もし本当に怪獣がいたら、こう見えるのではないか」という感動を味合わせてくれるのだ。

 平成ガメラシリーズ第一作「ガメラ 大怪獣空中決戦」を初めて観たとき、この作品を勧めてくれた友人とこのような会話を交わしたことを、鮮明に覚えている。
私「えっ何これ!ゴジラよりすごくない?予算かかってるねえ~!」
友人「この映画の予算、5億(実際は6億)。平成ゴジラよりもずっと少ないんだ」
私「えっ? マジ?」

 日本の特撮を駆使した怪獣もの…平成ゴジラ、平成ウルトラシリーズは勿論それなりに予算をかけて作られている。それでも所々作り物に見えてしまい(着ぐるみが怪獣を、ミニチュアが建物を演じることに成功していない)、ハリウッドの大作映画と比較されてアレコレ言われることもある。それに対して「予算が違うしなあ~」と言い訳を自分自身に聞かせていたオタクは決して少なくなかっただろう。
 平成ガメラシリーズは、その閉塞感に風穴をぶちあけた。


 「日本の特撮も、怪獣映画もまだやれる!ハリウッドに負けないものが作れる!」と特撮オタクを沸き立たせた。平成ガメラシリーズが大好きな特撮オタクは、ネットサーフィンをしてみればあなたも沢山観測することができるだろう。本当にすごい娯楽作品というものは、神に近い存在になる。観てる側が自分の思い、願いを投影し、それに作品が答える。そうして、ファンの思いはますます強く膨らんでいく。オタクの生態(変な言い回しだが)が宗教に例えられるのも納得がいくだろう。特撮オタクたちの「好き」を超えた強い思いを背負って、平成ガメラは今なお輝いているのだ。



 そしてこの庵野&樋口監督の話題には欠かせない「シン・ゴジラ」。「2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。所謂、鬱状態となりました。」と所信表明で語るような状態になってしまった庵野監督。そこに東宝が話を持ち掛け、12年ぶりの国産ゴジラ映画を、樋口監督とともに作ることになった。
 庵野監督は、同所信表明でこう語る。
「過去の継続等だけでなく空想科学映像再生の祈り、特撮博物館に込めた願い、思想を具現化してこそ先達の制作者や過去作品への恩返しであり、その意思と責任の完結である、という想いに至り、引き受ける事にしました。」

 特撮オタクであり、特撮映像の作り手であり、今や特撮文化の伝道者である庵野&樋口監督が、日本の特撮映画の代表であるゴジラを作る。
 もちろん、出来上がる作品の出来を懸念する者もいた。2014年に公開されたギャレス・エドワーズ監督によるハリウッド版ゴジラこと「GODZILLA」のように大きな予算をかけられるわけではない。映像として見劣りするのではないか。そもそも、興行収入の低下からシリーズを休止することになったゴジラシリーズを蘇らせることができるのか。今の時代に、怪獣は受け入れられるのか。「庵野&樋口監督作品にもいまいちなのがあるんだけど、大丈夫なの?」と疑念を向ける者もいた。

 多くの思いを背負った状態で公開されたシン・ゴジラ。この作品がどう評価されたか、どれほどの興行収入を叩き出したからは、今更この記事で詳しく語るまでもないだろう。
 恐ろしくて強くてかっこいい大怪獣・ゴジラ。
 そんなゴジラを相手であっても、知恵と勇気で立ち向かう人類。
 多くの観客がそれぞれの思いや体験を投影し、この映画は話題沸騰となった。興行収入も80億円を叩き出し、シリーズは展開を活性化した。20億いけばいいな~と思っていた私は、想定を超える盛り上がりに驚いたのだ。

「庵野やめろ!俺より面白いものつくるんじゃねえ‼」
 これは、庵野監督との親交が厚い漫画家・島本和彦氏が2016年の夏コミで頒布したシン・ゴジラを題材とした同人誌のタイトルである。この称賛と嫉妬が混じった熱いタイトルはネットミーム化し、何か素晴らしい作品とその作者を絶賛する時に使われるようになった。特撮オタクを含めた多くの日本人の「好き」を超えた強い想いを背負って、シン・ゴジラは今なお輝いているのだ。

 このように、「シン・ウルトラマン」を楽しみにしていた理由2が、庵野秀明&樋口真嗣の作品だからである。私は、そしてそれはネットに棲息する多くのオタク達と同じように、この二人が作ってきた作品の虜である。

 以上が、私が「シン・ウルトラマン」を楽しみにしていた2つの理由である。前置きが長くなってしまったが、ここからが本題だ。

 私はこの「シン・ウルトラマン」のことが怖かったのだ。

懸念1:「シン・ウルトラマンが面白すぎちゃったらどうしよう」


 シン・ウルトラマンを楽しみにする一方で、頭をもたげるものがある。

 不安と嫉妬。そして、被害妄想。
「シン・ウルトラマンが面白すぎちゃったらどうしよう」

 現在の日本のアニメ・特撮を代表するクリエイタータッグが、あの「ウルトラマン」を手掛ける。庵野監督は元々自主制作で「帰ってきたウルトラマン」を作り、ウルトラシリーズへのオマージュを「エヴァ」に盛り込んでくるほどのウルトラ級ウルトラオタクである。シリーズを隅から隅まで把握しつくした超・天才がウルトラシリーズを作ったら、どれほど面白いものが出来上がるのか。
 樋口監督は盟友であるアニメーターの前田真宏さんとともにかつて「ウルトラマンパワード」の制作に参加した経験があり、先述のように「平成ガメラ」「シン・ゴジラ」の特撮シーンを支えた。東洋のギレルモ・デル・トロともいうべき超・天才が今ふたたびウルトラシリーズを作ったら、どれほど面白いものが出来上がるのか。

 面白すぎて面白すぎて面白すぎるものができてしまうのではないか。

 映画の上映中の2時間、私の眼は私の体を離れ、この不思議な時間の中で興奮の絶頂を味わい続けるのではないか。次々押し寄せる怪獣。異星人。スーパーメカ。大迫力のバトルに濃密なドラマ。今もっともインターネットで流行している麻薬「サプライズ」の連続。生き継ぐ暇もない面白さのオーバードーズ。さながら成人漫画に登場するキャラのように、特撮の快楽に滑稽なまでに顔が歪むのではないか。
 そして、映画館を後にした私はこう思ってしまうのではないか。

「このシン・ウルトラマンに比べたら、あれもこれも大したことないや」

 先ほど平成ガメラシリーズのことを記したが、その突出したクオリティゆえに「平成ガメラはすごい!それに比べて最近のゴジラは~」「平成ガメラを観た人に昭和ガメラはキツイよw」という言説が、特撮オタクの中で公開当時からされてきている。それに対して、ゴジラやガメラのファンである私は「なにおっ」「昭和ガメラだって怪獣映画として出来がいいし、平成ガメラに繋がる要素もあるんだぞ」と反発する。それでも心のどこかで「確かにこの人の言う通りかもしれない」と納得し受け入れてしまいそうになる。
 「シン・ゴジラ」も同様だ。話題になる度に、「シン・ゴジラは面白かったけど、次は何を観ればいいの」「ない。平成ガメラや仮面ライダークウガを観ろ」「シン・ゴジラは、これまでのゴジラ映画とは一線を画す」といった会話が、ツイッターでなされている。これは「シン・ゴジラに比べたら、これまでのゴジラ映画なんか観るに値しない(ただし初代ゴジラは別)」と言っているようなものではないか。「ゴジラ作品の大半は、怪獣がどうでもいい理由でテキトーに戦うクソ映画です(超絶意訳)」といったことを、ゴジラ作品を愛好しているはずのオタクが呟いているのだ。はっきり言って、私は悔しい。それでも心のどこかで「確かにこの人の言う通りかもしれない」と納得し受け入れてしまいそうになる。実際、平成ガメラもシン・ゴジラも、やっぱり「自分の超超超大好きな怪獣映画リスト」に堂々と乗っている。
人間は、社会性の生き物だ。オタクであっても、それは変わらない。自分の「好き」を貫き通せるのか不安になることだってある。

 そんなところに「シン・ウルトラマン」。絶対面白い。私がツイッターをフォローしているあの人もあの人も絶対褒めちぎるだろう。「庵野!樋口!庵野!樋口!」「庵野やめろ!俺より面白いものつくるんじゃねえ‼」の絶賛が輪唱されるに違いない。それに私も加わっていくのだろう。
 「平成ガメラシリーズ」。「シン・ゴジラ」。そして、「シン・ウルトラマン」。これらの作品が、突出したクオリティと支持を得て、これまでの怪獣映画を置き去りにするのではないか。そして、この空前絶後の作品群に、後世の怪獣映画は敵わないのではないか。

 別に怪獣映画に限った話ではない。「あれに比べたら大したことない」とつい比較してしまうことは、誰にでもあるだろう。「みんな違って、みんないい」とは言っても市場に出て他の作品と競争関係にある以上、比較は避けられない。また、作品同士を比較することで気づけることもある。
 だから、私はそれを責めることなどできない。それゆえに、この懸念は私の中に居座り続けている。


懸念2:「シン・ウルトラマンが売れすぎちゃったらどうしよう」


 「シン・ウルトラマン」が作品の評価面で他を圧倒するのではないかという懸念とは別に、興行収入面での懸念もあった。

「シン・ウルトラマンが売れすぎちゃったらどうしよう」

 興行収入が80億を超える「シン・ゴジラ」に、100億を超える「シン・エヴァンゲリオン」。庵野&樋口監督の「シン」作品は、実写でもアニメ映画でも近年トップクラスの興行収入を誇っている。
一方で、「シン・ゴジラ」以降のゴジラ作品の興行はどうかというと、それに迫るほどのものを叩き出せていない。2021年公開の「ゴジラvsコング」は国内では19億。2019年の「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は28.4億円である。もちろん、この2つはハリウッド制作で全世界で公開されているため、総合的な興行収入はシン・ゴジラを軽々と超えているのだが、日本では「まあヒット」くらいの数字であり、シンゴジの熱狂にはとても届いていないのが現状だ。
 そして東宝は、「シン・ゴジラ」以降6年以上にわたって、実写でのゴジラ映画を作れていない状態にある。無論予算やスタッフ集めが上手くいっていないのかもしれないが、やはり「シン・ゴジラ」の圧倒的高評価と興行収入を前に、それに負けない新しいゴジラを生み出せるか迷っているのではないか。
「ハリウッド版のような大怪獣バトルを予算をかけて作ることができない」
「怪獣という存在を現代日本で説得力をもって描けるかわからない」
「リアリズムを追及したシンゴジ以降の作品で超兵器を出しても、荒唐無稽と切り捨てられるのではないか」
「ゴジラ以外の怪獣がゴジラと戦うとして、そのあらすじが受け入れられるかわからない」
「庵野&樋口監督のような熱狂的なファンのいるクリエイターが他にいない」

 庵野&樋口監督がクリアした先述の課題に、再度ぶち当たっているのだ。
 そしてそんなところに「シン・ウルトラマン」が公開される。
 ウルトラシリーズは海外展開もしているから、中国や東南アジアでも公開されるだろう。あのギレルモ・デル・トロ監督やジェームズ・ガン監督も楽しみにしていることから、アメリカでも公開され「Annno!Higuchi!」と好評を得るだろう。「シン・ゴジラ」の時は海外での興行収入はさっぱりだったが、本作はしっかり稼いでくるはずだ。そして100億、200億とシンゴジを超える興行収入を叩き出したらどうなるか。

 東宝が「やっぱり庵野&樋口監督でないとだめだ。両監督が作りたいものに全部賭けよう」「ゴジラよりもウルトラシリーズの方が続編作りやすくて儲かるし、ゴジラ作るの辞めよう」という決断を下すのではないか。

 そもそもこの「シン・ウルトラマン」を制作(映画を撮影~編集まで担当し、実際に作っている)しているのは円谷プロダクションではなく、東宝である。クレジットには「制作プロダクション TOHOスタジオ シネバザール」とある。勿論円谷プロやカラーも出資しているが、東宝のお金を使って、シン・ゴジラを制作していたスタッフが作っているのだ。だから興行収入のうちいくらか(配分は不明だが、決して少ない割合ではないはず)は東宝に入る。その額がゴジラよりも大きいと判断されたら?

 庵野監督は、大のウルトラシリーズ好きである。ウルトラマンが上手くいったから、次はウルトラセブン。帰ってきたウルトラマン、ウルトラマンA。タロウにレオ、80も自身の手で映画化させようとするのではないか。樋口監督も、作品の質を支えるべくそれについてゆくだろう。そして東宝のお金と人材がつぎ込まれていく。作品群は好評を博し、興行収入も上々だろう。そうなったら、ゴジラは? 東宝が庵野監督の「シン・ウルトラシリーズ」とゴジラを両立させるほどのお金や人材を持っているとは思えない。当然より儲かる方にシフトするだろう。なにせ興行の不振から2004年の「ゴジラ ファイナルウォーズ」以降2014年の「GODZILLA」の興行的成功まで新作ゴジラ映画を作ろうとしなかった会社である。

 そうやって、せっかく「シン・ゴジラ」で復活した国産特撮ゴジラが餌を得られず飢え死にするかのように止まってしまうのではないか。ゴジラが、ウルトラシリーズひいては庵野&樋口監督という才能の前に完膚なきまでに敗北し、二度と立ち上がれなくなってしまうのではないか。もちろんウルトラシリーズも大好きだから、大作映画を定期的に公開できるほどの勢いを保てるほど発展するのは嬉しい。庵野監督の「シン・ウルトラシリーズ」、絶対各3回は観に行くし、パンフレットもムビモン(比較的低価格帯のフィギュア)も揃えます。一方で、ゴジラも大好きだから、またシリーズが止まってしまう状態になってほしくないのだ。

「シン・ウルトラマンが面白すぎちゃったらどうしよう」
「シン・ウルトラマンが売れすぎちゃったらどうしよう」

 この二つの理由から、私は「シン・ウルトラマン」を楽しみにする一方で恐れていた。
「何言ってんだ、被害妄想も大概にしろ。そんな訳ねえだろ」「見苦しい嫉妬してんじゃねえよ」「推し作品のことを、信じられていないんだね」とこの記事を読んでいる貴方は思うかもしれない。
 しかし、これは私の「好き」と「好き」を超えた強い思い、コンプレックスが複雑に絡み合った非常に個人的な悩みなのだ。



 オタクは、推し作品にお金と愛を注ぐ。お金はともかく愛ゆえに、オタクは苦しまねばならぬ。何かしらの作品にハマることで現世(学校とか社会とか)の苦しみから解脱できるわけではない。新たな煩悩を背負うことになるのだ。推し作品の続編がつまらなかったら?儲からず打ち切りになったら?もっとすごくて面白い作品が現れたら?推し作品に関する心配ごとが粒子加速器のように頭の中を高速回転し、暴走してこんな記事を書いたりするようになってしまうのだ。

 私は、このチラ裏ものの記事に共感して欲しいとは思わない。ただ自分の思いを文章でまとめつつ……「こんなことを思ってる奴もいるんだな」とちょっと注目してほしいだけなのだ。

 そんなこんなでモヤモヤしつつ、5月13日を迎える。シン・ウルトラマンの公開日だ。私もついに、この映画を観るときがやってきた。

 そして…

シン・ウルトラマンを見終わった現在の心境


 シン・ウルトラマンを観おわった。

シン・ウルトラマン「サァプラァァァァイズ!!!」
私「YYYEEEEEEEAAAAAAHHHHHHHH!!!」

 まずアバンのウルトラQ。(登場怪獣は多くはないだろうと思っていたので、ウルトラQの怪獣が短い間とは言え登場したのはサプライズだった。)
 ネロンガとガボラ。(田舎で暴れる怪獣よき。文句なし)
 神秘的な真実と美の化身でありながら、人間という小さな命のことに興味津々なぼくらのヒーロー、ウルトラマン。
 思わず気持ち悪い笑顔になってしまうオマージュの数々。「あなたは、最新の技術で新しい表現をしたいの。それとも、オリジナルの再現をしたいの」 「両方さ」
 うさん臭さとコミカルさの絶妙なバランスで、つい気を許し「地球をあなたにあげます」と言ってしまいたくなるようなメフィラス。
 まさか「巨大フジ隊員」が後半のストーリーを担い、が外星人が地球を狙う理由になるとは。
「ゾフィー兄さん?ウルトラマンを連れ戻しにきたのかな…えっ地球を滅却?何をいうてはるんだ?えっゼットンお前が出すの?宇w宙w人wwゾーフィじゃんwwwwwwww」

 シン・ウルトラマンは、初代からいくつかのエピソードを抜粋しつつ一本のストーリーラインにまとめ、「なぜウルトラマンは人間のために戦ってくれるのか、そんなに人間のことを好きになったのか」というテーマに尽くした映画だった。前半では人間のために怪獣(本作では「禍威獣」という名称が設定されている)と戦うヒーローを描き、後半ではザラブやメフィラス、ゾーフィといった地球を狙う異星人(本作では「外星人」)との戦いや交流を描き、テーマを掘り下げていく。人間と外星人の狭間にいるウルトラマンの人類への愛には、勇気づけられること間違いなしだ。


 といった具合に、確かに面白く興奮した映画であったが、事前に想像していた面白さのオーバードーズ…というほどではなかった。ストーリーのプロットは大変よかったが、マイナスだと思うところも少なくない。

 例えば、初代ウルトラマンに登場した「科学特捜隊」こと科特隊を翻案した本作の「禍威獣特設対策室」こと禍特対。アバンの「ウルトラQ」では成果をあげていたものの、ネロンガ戦以降はインフレに置いて行かれている。オリジナルの科特隊のように専用基地なんかもっていない。小さなオフィスがあるだけである。ジェットビートル、スーパーガンのような怪獣や異星人とやりあえる装備ももっていない(戦闘は通常兵器しか持たない自衛隊に依頼する)。禍威獣や外星人をある程度調査できても、さあいざご対面、といったシーンではお手上げ状態になることもままあった。そのため、かなり頼りない印象を抱いてしまった。
 クライマックスのゼットン攻略戦ではゼットンを亜空間に葬る手段を考案するものの、そもそもウルトラマンが書き残した論文なくして完成せず、その開発する描写も「禍特対の科学者:滝明久がPSVRでリモート会議する様を映してそのシュールさをネタにする」というもので、はっきりいって省略しすぎではないだろうか。作戦の実行役もウルトラマンであり、本作の人類はウルトラマンに「まだ」頼っているばかり…と感じた。
 庵野さんは現場の負担を減らし、予算を圧縮することを考慮しつつ脚本を書いたと「シン・ウルトラマン デザインワークス」で語っているため、このような形になったと思われる。従来のウルトラシリーズのような本格的で大規模な防衛隊をさらにパワーアップさせたものは、今作では観ることはできなかった。

 キャラクターの描写にも課題がある。禍特対の一員であり、本作のヒロインである浅見弘子(フジ隊員のようなポジションのキャラ。弘子隊員はウルトラマンになる男:神永新二とバディを組んで行動することになる。)が他のキャラクターの尻を叩くシーンがあり、これはセクハラ(性的ないやがらせ)ではないかと話題になった。もちろん自分を奮い立たせるために自分の尻を叩くのはまだいいが、いざ初出動というときに同僚の船縁由美の尻を叩くのは果たしてどうなのか?という疑念がぬぐえない。同僚とはいえいきなり尻を触られたいか?二人の親密さを表すシーンなのかもしれないが「初出動」のタイミングではノイズになってしまう。
 メフィラス編において、メフィラスが持っているベーターボックス(人間を巨大化させ、生物兵器にする装置)が日本政府に渡ることを阻止すべく、弘子隊員のにおいのデータを伝ってそのありかをつきとめるというシーンがある。このとき、神永が弘子隊員の体臭を禍特対の同僚3人が見ている前で舐め回すようにじっくり嗅ぐというシーンがあり、私は面食らってしまった。超人らしくウルトラ嗅覚をつかえばこんなにねっとり嗅がなくてもいいのでは?弘子隊員がかわいそうになってしまう。私はお色気描写も好きだが、本作のこれに関しては唐突な感じが拭えず、ノイズになってしまったと考えている。

 脚本の庵野さんは、設定資料集「シン・ウルトラマン デザインワークス」でのインタビュー(p74)で「自分の気持ちとしてはザラブの話のベーターカプセルの受け渡しシーンとメフィラスの話の体臭を嗅ぐシーンに浅見の恋愛感情が見え隠れしてくれるとよかったんですが、撮影ラッシュからはそれを感じられず、残念でした。」と語っている。脚本側と撮影現場で齟齬があったためにこうなってしまったことが推察できる。演出がこれを発揮できていれば、このシーンもロマンチックでウルトラマンと人間の交流を象徴するものになったかもしれない。

 また、これは作品のコンセプトとは離れたところになるが、本作の怪獣こと禍威獣は、はるか昔に地球に遺棄された生物兵器であったことが明らかになる。怪獣の多様な生態が好きな一ファンとしては、本作ではそれが一色に塗りつぶされてしまい少々複雑な気分だ。ゴメスも、マンモスフラワーも、ペギラも、ラルゲユウスも、カイゲルもパゴスもネロンガもガボラもオリジナルの出自はカットされ、みんな外星人によって作り出された生物兵器だ。
 怪獣の正体が生物兵器、というネタは昔からあり、「生物としてぶっ飛びすぎじゃない?」「1体しか出てきてないのに、どうやって繁殖してるの?」「どうしてそんなに大きいの?」「地球の生物が進化してそうなったならその過程の生き物は?」といったツッコミに
「改造されて生まれた兵器だからね」「繁殖機能はない。かってに増える兵器とかいやでしょ」「兵器だからね。デカい方がつよい」「元々地球外の生物かつ改造されているから、過程の生き物とかいないよ」と答えることができる優れたアイディアだ。
 半面「この星に昔からいる生物にはすごく強大な力が隠されているかも」「恐竜の生き残りがどこかに住んでいるかも」といった空想と浪漫はオミットされてしまった。
 ファンタジー要素の強い怪獣、子供の怪獣愛を反映した怪獣がいることも初代「ウルトラマン」の魅力の一つだったが、この様子では「シン・ウルトラマン」の世界にはそのような禍威獣はいないだろう。カネゴンも、ガメロンも悪魔っ子リリーも異次元列車もカヴァドンもギャンゴもヒドラもシーボースもいなさそうだ(実はいます!とかやってくれてもいいけど…)。

 庵野さんは「カタストロフィよりも侵略テーマSF作品としての質と感性を(CP的にも)重視した面白さを描く。」と「シン・ウルトラマン デザインワークス」に掲載された(p77)本作の企画書に記している。「シン・ウルトラマン」がシリーズ化するとしてもあくまでも対外星人に注力したものになるだろう。異星人の生物兵器としての禍威獣は登場しても、野生動物としての怪獣が観たい人の需要に答えるものではないだろう。

まとめ


 という訳で、面白かったところもあれば、いまいちなところ、好みでないところもあるなぁ…というのが正直なところだ。そうやって自分の感想を整理していく中で、こみ上げてきたものがあった。
「日本の怪獣映画は、まだまだ高みを目指せるんだ!」

 シン・ウルトラマンは、他の怪獣映画を置き去りにするような圧倒的面白さを供給することは出来なかったかもしれない。一方で「ここをこうすればもっと面白くなるのに」「俺ならもっとすごいものを作れる」と良い意味で観客を刺激する光を放っただろう。さながらウルトラの星のように。

 ウルトラマンは、万能の神ではない。
 同じように、庵野&樋口監督も万能の神ではない。挑戦して、上手くいかなかったこともある。

 そんなわけで、現在の私は公開前まで心を埋め尽くしていたものからある程度解放され、気楽に本作を応援できるようになった。確かに粗いところもあるが、それでも一生モノの大好きな映画だ。そして庵野監督が作りたいと語る「続・シン・ウルトラマン」や「シン・ウルトラセブン」が観たくてたまらない。基地や戦闘機を備えた本格的な防衛隊を描くということなので、予算は本作より数段跳ね上がる可能性がある。そのためにも本作には稼いでもらわないといけない。現在30億突破。まだまだいけそうだ。

 そして、私の中では、新しい才能に大作怪獣映画を撮って欲しいという思いが強くなっている。庵野&樋口監督は昭和のウルトラマンが大好きな一方、最近のウルトラマンに登場する怪獣や宇宙人、ヒーローに対してコメントしているところをみたことがない(あったら申し訳ありません)。若い世代には、昭和の子供達のおさがりではない、若い世代の怪獣や宇宙人、ヒーローがいる。彼らに対する「好き」の気持ちを昇華させて欲しい。かつて憧れのあいつらを作品作りに活かしたクリエイター達のように。

 そして、現在撮影・制作中の「超大作怪獣映画(仮)」にはシン・ウルトラマンよりももっと売れてもらいたい。そうでなければ、二つ目の懸念が当たってしまうかもしれないのだ。そのためには、国内のみならず海外でも積極的に上映しなくてはいけないだろう。日本市場というパイで物足りなければ、海外市場というおかわりを獲りにいくしかない。登場怪獣は「まだ」不明だが、モンスターバースシリーズが東宝怪獣の世界規模での知名度の上昇に貢献している今がチャンスだ。まがりなりにも「日本が世界に誇る」と謡うのであれば、世界中で上映しないわけにはいかない。


 そして、何より面白い映画でなくてはならない。監督はあの山崎貴。3丁目の夕日やゴジラ・ザ・ライドでCGを駆使した怪獣演出には実績がある。怪獣の引き起こす現象から登場を盛り上げるスタイルは怪獣オタクも唸るクオリティ。そして山崎監督は、21世紀の日本映画のVFXを支える第一人者だ。確かにドラえもんやドラクエは散々だったかもしれない。確かに庵野&樋口監督のような熱狂的なファンは少ないかもしれない。しかし鎌倉ものがたりやアルキメデスの大戦、リターナーのように私の心を掴んだ映画もある。ライムスター宇多丸さんにネタにされて終わるようなものじゃない、みんなをあっと言わせるものが観たい。そして山崎監督にはそれができると信じてる。

 というわけで、今度公開の「ゴーストブック」楽しみにしています。


 面白い怪獣映画。
 儲かる怪獣映画。
 それが、選ばれし一部の超・天才クリエイターにしか作れない贅沢なものになってしまったとき、怪獣映画というジャンルは先細り、ポキっと折れる東京タワーのように今度こそ滅びるだろう。
 そんなのは嫌だ。困難な道のりだが怪獣に立ち向かう人類のように諦めず挑んで欲しいのだ。


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