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『太鼓の社会的価値』についてツラツラしてみた。出てきたのは『お山の取り合い』に飽きちゃった僕だった。~前編~

社会・文化・ビジネスや人間についてまで刷新が起きている中で、自分が17年間いるジャンルについても俯瞰視してみる。
これは飽くまで僕の見解だけど、根拠がない訳ではない。僕はイイ本や記事に出会える習慣があるからだ。なので、オススメの本のリンクはチョコチョコ紹介していく。

現時点での自分の小さな答えを出すというのは勇気のいることだけど、自分が自分である証明を誰かに任せないため には必要だ。

尚、俯瞰的に見たいので口調が冷たいかもしれないけど、普段は所謂エモいヤツです。


~目次~
▪️『経済活動としてのプロ』と『趣味としてのアマチュア』
▪️『プロ』は何を提供しているのか?
▪️食うか?食われるか?食えるのか?で止まっている
▪️太鼓ビジネスは何のために?
▪️(グチ)太鼓の発展は終わった??
▪️文化芸術(生きがい)ドリブンを証明できるか
▪️『こなす』をやめるという姿勢
▪️最後に


■『経済活動としてのプロ』と『趣味としてのアマチュア』

社会の経済活動に継続的に入り込んで太鼓の演奏・指導・作曲等を行ってる人をプロと呼んで間違いないと思う。そのプロの経済活動についての価値を見つけたいんだけど、先にアマチュアってなんぞやってことを見てみる。

一つ定義するなら、アマチュアとは経済活動は太鼓以外に持っていて太鼓は趣味、つまり自分の意志で趣を味わうための能力を率先して養っている人たちである。
『やりたい!』という自分の意志で、稽古に出向いて鍛錬をすることは、個人の人間力を磨く活動だ。

太鼓を教えていてよくあることだが『次回までに練習してきます!』という姿勢は人として美しい。日常をこなすだけになっている他の経済活動ではあまり見受けられない。というか経済活動ではむしろそんな姿勢は必要がなかったのだとも思う。
(ちなみに『練習してきます!』を講師への"承認"目当てで発する人もいるのは社会の根深い問題だ。)


人間力を磨く行為がある以上、アマチュアの活動に社会的価値がないとは思わない。
また、自分の生きがいに没頭しているという意味では、むしろ『プロ』よりも『アマチュア』の方がリスペクトの対象となるだろう。

『生きがい』自体を人生の大半に組み込むためにプロになった人がほとんどのはずではあるが、アマチュアからプロに移行した瞬間に生きがい(=芸の純度)を見失い、プロモーションやマーケティング優位で食べていこうという傾向が太鼓界にはたくさんある。

各業界で同じ傾向があるかもしれないが、太鼓界においては舞台や芸術の本質を見誤っていること、社会を勉強することを止めてしまっていることが原因だと思われる。

そもそもプロとかアマという定義付けが適合不全を起こしているという考え方もある。便宜上これらの言葉を使っているが個人的にはなるべく使いたくない。
もちろんプロの信念は必要だと思う。問題は『プロ』という認識が、主体的にも客観的にも余りにも疎らだということだ。

■『プロ』は何を提供しているのか?
①舞台
『舞台』と呼ばれる場の価値は『芸術作品』と似ている。
一つ例を挙げて言えば観る人の人生を投げ込む場であり、自分の投影をすることによる気づきの場である。作品から受けるモヤモヤと、自分自身のモヤモヤを照らし合わせる。誰もが社会という舞台に立っているということを具象化してその人それぞれの何かに触れる。純度高く届いた結果、心が揺れて笑顔や涙に変わる。当然、舞台に立つ人の純度が要求される。とても繊細なコトだ。

②指導、レッスン、作曲
限られた回数、もしくは継続的に太鼓を教えて誰かを『舞台』に上げる。趣を味わう能力を磨くための技法や哲学の知ってる限りを伝える。これはプロ自身の永続的な鍛錬と探求が欠かせない。

※研修
これは僕自身の新しい挑戦であるが、文化芸術としての太鼓から教わってきた教養や哲学を『研修』として企業や若い世代へ伝えている。知覚、コミュニケーション能力、セルフリーダーシップを、一人ひとりの音から気づいてもらい、全ての人が生きがいドリブンで暮らせる教養の解放を目指している。
まだまだ始まったばかりの挑戦なので、余り知られていない。

※音
歴史の中で太鼓の音は、人の気持ちを鼓舞するために使われてきた。勇気の音だ(このフレーズ大好き!)。見聞きする人へ効能のとしての価値は存分あるとは思うが、余りにも目に見えない。
目に見えないモノが大多数の人の社会価値として認識されるのはもう少し先の話かもしれないし、そんな時代が来るかはわからない。なのでここでは『こんなことがある』とだけ留めておく。


■食うか?食われるか?食えるのか?で止まっている場合か!
先述したが、プロモーション=芸術=舞台という盲信が太鼓界では横行している。もちろん全員ではない。目指すべき方向の修正にかなり遅れを取っている。

プロという呼び名への執着が強すぎると、生きがいとしての太鼓を忘れてしまう場合がある。
食うか?食われるか?そもそも飯が食えるのか?で止まっている場合ではない。自分のジャンルから外へ出て自分達を見てみること、つまり社会や時代で何が起きているのかを常に勉強し続けるのはこれからの時代は必須だ。

そして、お山の取り合いも色濃く存在している。お山の取り合いに違和感を感じないのは、もはや危険だ。
しかし、曲・舞台という無形の作品を扱っているからこそ取り合いが発生しやすい。肩書き取りの気持ちも良く分かる。これは私の!という境界線が引きにくい。だから、どれだけ世に知られているか?に極端に依存するのは自然なのかもしれない。

『自分がプロと思った日からプロ』。
プロだから生きていけるという保証はない。プロは生き方だ。
誰かにそう認められたいという承認欲求は危険だ。


★山口周さん
ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す


後編へ続く



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