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#勇気の芸術 7 『天才は自由の総量でできてる』

前回の#勇気の芸術 6 『気づいたときに夜が明ける』のつづき


では、自分で気づくまでの過程ですが、鍛錬だ、根性だと精神論だけで話しては、ここでは不十分だと思いますので、もう少し切りはなしたり、くっつけたりしてみます。

~ときどき娘の詩~
『どんなこころでも』
※今回、メロディも付いてるようです


人から教えてもらったり、
本を読んだり、
知識を集めてアタマで解釈をするということも有効だけど、
それだけでは活きた(生きた)学びにはならなくて。

結局はまず実際に『自分』をやってみる事が必要で。


ただただ色んなことを知りすぎても、知性の純度が落ちてしまう。

知識のインプットをしたら、
自分なりの公式を持ち、それを小さく試す。
その試した経験を元にまた生きた学びを得て、
また公式をつくり、また試す。
とてもかんたんだけど、
これだけではなかなか実を結ばないかもしれない。


ここでは方法よりも「自由度」の方が大切。


「自分なり」のということと、「それを小さく試すことのできる」環境が自分の周りに用意できているかかが肝要。

誰かと共にくらしているならば、
周りが放置してくれたり、
機会をわけてくれるという理解も大切。

(※「小さく」とあえて表現しているのは、いきなり大舞台で試したところで、無謀な付け焼刃のような少しだけおもしろい宴会芸にしかならないから。)

「コツコツとたった一瞬のためだけにつみ重ねたコトの総量」この量と質が「姿勢」にも大きく影響する。

質とはイイとかワルイではなく、
真に自分の学びであるかが上質ということ。

「あの人は何でもかんでも閃くテンブの才があるから私とは世界が違うんだ」というような霞がかかったあきらめの気づきには僕は反対。

天才と呼ばれる人たちは、
この自由なつみ重ねの総量が圧倒的に違う。
(キチガイじみて周囲も垣間見ずに「没頭できる」という意味で"天才"とは呼びたい。)

これは好きなコト、没頭できるコトでしか到達できない領域の話。

「あの人は苦しいことも堪えて一所懸命がんばってる」
「文句も言わずに長年苦労を重ねてエライね」
というのは、人がどう見ようとは勝手ではありますが、その言葉に自分は安心してはいけない。

(※苦しみを美化するような努力ではいつまでたっても次の景色は見えてこなく、そのうちに諦めてしまうか、本質にたどり着かずに「方法に問題がある」とサトリ、次の場でも同じことを繰り返すことになります。)

長く"常識"という苦労を重ねて「いつかは自分にとっていい時代が来る」というのは、本当に自分の知覚で生きてきていない人たちの、他力本願のナレアイの成就願望になってしまう。

また、
「頑張っている」ということだけで褒められた時代があるので、「頑張っている人」には真実を指摘しづらいという面もある。

頑張ることで自分をマヒさせてるときは、周りの人が指摘するのを遠慮しているかもしれないのでとても気を付けなければいけない。


「頑張ってる自分」よりもう少し奥の、

「本気になれる自分」を探すことが、潤いとなる。

生きる学び。


皮膚の薄皮をはぐような気づきの繰り返しが、
真に自分を成長させるのです。


そして、

ここまで書いて思う。。

言葉にすると、
めちゃくちゃめんどくさい。

"めんどくさい"が、
世の中にはめちゃくちゃ増えてる。

めんどくさいことなんか、
『ほんとは』やらなくていいのに。

めんどくさいと思わなくなる術すらあるけど、
みんな封じ込められてる。


昔につくられたルールと、
この国の文化・風習が相まって適合不全を起こしてる。


ここの話は延々と長くなるので、文化研究者である池永寛明さんの著書、『日本再起動(ルネッセ)』に譲らせて頂きます。

冒頭から"日本の赦しあい文化"についてグッサリと提言しているのが、面白いです。


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