見出し画像

暗闇わーく

2018年に書いた記事を少し改変。

コロナによって見えていた現実から視覚を奪われ、暗闇の中を歩いているような気分になっている人が多いのではないかと思ったので再掲載。

暗闇ワークは暗闇の中でワークをする。視覚に頼りがちなのを、身体で反応できてるかを確かめつつ、感受性をあげる。使い込んでる割に、僕は目が良いので、視覚に頼りがち。目を瞑ったら瞑ったで、これまた酷使してる割に良い耳が働いてしまう。目と耳がいいのは、好きなところではあるけど、見たくないものや聞きたくないものまで見えたり聞こえたりする。

現実とか。

目を瞑った状態で寝てる自分に向かって、パートナーが歩いてくる。しかも足音がしないように靴下を履いて。それでもいくらか聞こえちゃうけど、そこにはあえてフォーカスはしない。見えない、聞こえない状態でも身体はしっかりと感じてくれてて、嫌な感じ、圧力、を感じてそれに乗って動くと、避けれたりする。実際に避けられてるかは目を瞑ってるからわからないけど。少しできた感じになってくると、正しい動きをしようとしてる自分を発見してしまう。正しく動くっていうのは、良いことな感じもするけど、結局視覚への依存であり、どっかにある動画とか映画とかのイメージの意味合いが僕の場合強い。目を閉じてても、視覚に依存してるってのはなんとも。。。誰かに見られてる認識から、正しく動きたいっていうのもあるし。もっとシンプルにナチュラルに動きたい。そう考えると、上手い下手、正しい、間違ってるとかっていうのは割とどうでもよくなってくるかもしれないなぁと思ったり。

その日の 帰りに少し話に出たんだけど、盲人の人の感覚はどうなってるかっていうのは興味深い話題。盲人といえば、僕の中ではレイ、セントオブウーマンかな(座頭市とか5パーセントの奇跡とかドントブリーズとかもあるけど)。特にレイは僕のオールタイムベスト5位以内には間違いなく入るくらいに好き。レイチャールズの伝記映画をジェイミーフォックスが演じて、アカデミーの主演男優賞をとった映画。ジェイミー・フォックスは実際に1日の大半をブラインド状態で過ごしたり、映画の中のピアノの演奏を自分でしたりと。ジェイミーフォックスとレイチャールズの天才っぷりが混在してて最高。内容的にも音楽の天才の狂気に、家族とか女性とか社会が巻き込まれるんだけど、最終的に1人の人間の孤独に触れてくる素晴らしさ。書いてるともう一回見たくなってくる。うう。

この中のレイの歩き方って、ピンとしてて綺麗なわけではないんだよな。どっちかっていうと、いつもグニャっとしてるんだけど、でも自然な感じ。やっぱり目が見えてることで作ってる真っ直ぐさ、世間的な姿勢の良さ、正しさに傾きやすいのかなぁと思ったりもする。

2年前の記事を久しぶりに読み返してみると今の自分がどうしてこういう考え方をしているのか、どういう本を読んできたのか、どういう映画に触れてきたのかの変化を感じることができる。

このあとに伊藤亜紗さんを知り、著書をよく読むようになった。今回の話題でいけば「目の見えない人は世界をどう見ているのか」。目の見えない人がどのように世界を認知しているのかを知ることによってあぶりだされる視覚の落とし穴。そもそも見えている人の見えている世界はいっしょなのだろうか。

見方が変われば見えるものも変わる

では2018年にリターン

暗闇にして目を閉じることで視覚を制限する。それだけでなく、靴下を履いて足音を消すことで聴力にも制限をかける。それによって、身体からの反応を引き出す。人間の気配を読み取る。そういう意味で見聞色の覇気っぽいなぁ。って。なんか漫画の話になると嘘っぽさというか、リアルじゃあない感じもあるけど、ミラーニューロンは見えないものにも反応するらしいから、十分に裏はある。はず。 

その気配を消す話。になるのかなぁ。気配を消す中にはフォーカスをしないってことや、感情を出さないっていうのがよく言われることかなって思うけど、実際に自分の発する音を消していく。 立ち上がる。座る。歩く。普段からよくやってる動作にどこまで音が出るのか。をまずは認識する。暗闇ワークをある程度やってからやると、感覚が拓くので自分の音にも敏感になれる。音を出さないためには必要以上には動かない。テンションで動いてしまうと必要以上に動いたり、息が止まってしまったり。そうすると悪循環に陥りやすくなる。かといって大きく呼吸をして、テンションを出して行くと、呼吸の音が出てしまう。 

ここで第2の呼吸とザイコセミナー(2018年2月)の絡みが出てくる。第2の呼吸は動作で呼吸を産む受動的な呼吸。今回のセミナーでは呼吸を小さくして、動きを極力小さくしていく。小さくしていくことで、動きは見えなくなり、呼吸音は消えていく。それでも影響はあるよねっていうのがベース。 第2の呼吸をしていくと、呼吸が肺だけでなく、身体全体にまで広がり、さらに身体からはみ出していく。そうすると、もともと肺だけでしていた呼吸を、その枠をはみ出して大きなスペースでやるから、呼吸の密度が小さくならざるをえない。 

 今回の暗闇ワークをやってみると、自分の音(気配)を消すためには意識(呼吸)を広げていかざるをえないと思った。音を立てずに動く→テンションで動かない→呼吸→小さい呼吸→感覚が広がる。 広げていくことで小さくなるのと、小さくすることで広がる。っていうのはある意味一緒なんだけど、呼吸が動きを産むっていうのと、動きが呼吸を産むっていうのと同じくらいには違う。

自分にとっては。

このなんか一方通行じゃないのがとても良い。 感覚をいつでも広げられるっていうのは大事だけど、広げっぱなしも生きにくい。ここら辺のコントロールもできるようになれるといいなぁ。 

ちょうど2年前の記事でした。

振り返ってみると点と点がつながって浮かんでくる線が何本か見えますね。結構おもしろいことやってるなと2年前の自分を振り返りつつ、あんまり成長していないようで、振り返ってみると先には進んでいることを確認できました。

本当は違うこと考えていたのですが、思考の一助を過去の自分にしてもらいました。

※参考文献:「目の見えない人は世界をどう見ているのか 伊藤亜紗著」 光文社新書

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?