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本を読まなくなった

物心ついた時から、母が読み聞かせをしてくれていた。特に昼寝の時が多かったような気がする。簡単な数ページの絵本から、ちょっと持ち上げて読むには重いんじゃないかなと思う、多少絵が多めな児童書まで。今思えば、本当にありがたい話だ。

母は読書が好きな人で、よく日本語訳された洋書を読んでいた。

そんな母の姿を見て育ち、何となく、文庫サイズの、文字がびっしりつまった本を読む、という行為に憧れた。それが大人に近づける一歩だと感じていたのだと思う。

「私も字が小さい本読みたい!」というようなことを言って、母が選んだ2冊を与えられたのが、確か小学生2,3年生頃。今でも覚えているが、2冊ともポプラ社から発行されたもので、おてんばエリザベスつまさきだちの季節だった。

正直、つまさきだちの季節については内容を覚えていない。折原みと先生の本は、その後めちゃめちゃ読むようになるのだが、最初に触れたこの本は、ほとんど記憶に残っていない。

おてんばエリザベスについては、ぼやっと覚えていることがあって、50ポンドで買い物がうんたらかんたら、みたいな内容があったような? 学級裁判みたいなのもあったような? 寮制の学校で結構校則が厳しかったんじゃなかったっけ? という、断片的な朧気な記憶だ。

ただ、この本は何度も読み返した記憶があって、当時は好きなお話だったんだろうな、と思っている。今は手元にないので読み返すことができない。断片的な記憶の答え合わせもできない。

…ともあれ、この幼少期から本に触れていた経験が良かったのかは定かではないが、活字を追うことは嫌いではなかった。その後も本は読んでいたし、学校の図書室で、児童向けのシャーロックホームズを読みつくしたりしていた(ルパンよりホームズ派になったのはこの経験が大きい)。

いつ頃から本を読まなくなったのかな、と思い返すと、中学生あたりから読書量が減ったような気がしている。で、その時期何があったかな、と思うと、ゲームにハマりだしたのがその頃だった。ようするに、読書の時間がゲームに変わったのだ。

その後、読書の時間が復活したのは、社会人になった頃だった。電車の通勤時間がとにかく、とにかく長かったからだ。片道約2時間、往復4時間。もはや引っ越せば? という距離だが、当時、片道1時間弱の拠点に移動することが確定していたので、それまで我慢すればいいと思って通っていた。

読書に慣れている方なら分かると思うが、往復4時間もあれば、読みやすい本なら1冊は読み終わる。結果、この長時間電車通勤期間は、結構本を読んだな、と思う。その後、何度か転職を繰り返したが、通勤時間に本を読む、という習慣は、何となく残り続けた。

ただ、徐々にその頻度も落ちた。理由は2つある。
1つは、スマホを利用し出したこと。スマホを手にしたことで、ソシャゲに触れられるようになってしまった。また、その時間にニュースや、SNSを見るようになってしまった。
2つ目は、仕事のために脳を整理する時間に充てるようになったこと。通勤中に、その日やらなくてはいけないことや、明日進めたいこと、調査に時間を使うようになった。

結果、意識して読書時間を持とうとしない限り、他のことに優先して時間を使うため、本を読むことがなくなってしまった。

雑誌は見るが、漫画もほとんど読まない。ビジネス書的なものも読むが、それほど多くはない。小説は、本当に読まなくなってしまった。でも読みたい気持ちはあるので、話題の本などは買って積んである。積読だ。もったいない、読まねば、という気持ちは今もある。

ただ、今読みたい本をあげるとしたら、深夜特急みたいな旅本かな。
旅気分の味わえる本が読みたい。

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