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生きてるだけで、まるもうけ。と誰かが言っていた


生きているだけで、まるもうけ。

誰の迷言だったろう。私は、この迷言を時々使う。

私の父は、酒好きで、働かず、酒を買いに行く途中で倒れて一週間後に亡くなった。多臓器不全で61歳だった。
その頃、60歳から年金を貰える時代だったが『俺は、沢山もらいたいから、65歳に申請するんだ』と言っていたが、一円も貰わず、亡くなった。
生きていれば、まるもうけだったのに。

母は、そんな父の分も沢山働き、朝早くから夜遅くまで、なんでこの家に嫁に来たんだろう、といつも思っていた。
そんな母は、54歳で自ら命をたった。
自宅の納屋で、焼身自殺だった。
母は、美人さんで性格も良かった。
近所のおばちゃん方を病院や買い物に車を出してあげる、親切な優しい母だった。

そして、私には3歳上の兄がいた。精神科の病院で27歳で亡くなった。
兄は、生まれた時から母が病院や産婆さん、保健師さんに連れて行き、障害について相談をしていた。
今でいう、発達障害か自閉症、統合失調症だと思う。
現在のように、専門の医者などいなかったので、治療を受ける事も出来なかった。心の優しいお兄ちゃんだった。優しいから、いつも父から虐待を受けていた。

今年、37回忌を迎えた。
小学生の頃から成績表は『1.2.1.2.1.2.3』と家族にいわれていた。3は、唯一国語の成績だった。
19歳で、ふらりと出掛けて、遠くまでいき無銭飲食を繰り返すようになった。
両親は、強制入院をさせちょうど、1ヶ月ほど経った頃、病院で昼食を終えて薬を飲んでいる途中、心臓が止まり亡くなった。

祖母は88歳で亡くなった。亡くなる1年程前に自宅で転び、歩けなくなり入院をしていた。
片方の耳があまり聞こえず、時々話が通じない事があった。
兄が小さい頃、『トイレに行きたい』とばあちゃんに言うと『ああ、水が飲みたいのか』と水をくれた、と言う笑い話しが我が家にあった。
タバコが好きで、前髪はいつもヤニですすけていた。
ある朝の事、茶の間のゴミ箱から火がでていた。私は慌てて起き、火を消した。
犯人は、祖母である。
タバコを吸った灰皿をそのまま、ゴミ箱に捨てたのが原因だった。

祖母は、猫が好きだった。野良猫だ。
餌を与え、時には、猫のお産の世話をしていた。優しい祖母だった。

曽祖母は、97歳で亡くなった。

弟は、5歳離れていて、今は子供2人が自立し妻と2人、幸せに暮らしているだろう。

私は・・・

私はと言うと、そんな家族の長女として生まれた。
人口20万人ほどの市の外れにある集落で生まれた。
バスは、朝と夕方一便づつ、今は廃線になってしまった。
小学校、中学校も廃校になり今その集落に、人は住んでいるのだろうか。
もう、何十年も訪れた事がない。

私はそんな集落で育った。
『井の中の蛙大海を知らず』まさに
その通り世の中の仕組みは何ひとつ知らない田舎者だった。

稲作農家を営んでいた我が家は、夜は街灯もない真っ暗闇、聞こえるのはカエルの声、しばれると言う言葉がぴったりのしんしんと降る雪、吹雪になると道は無くなる。

春になると、梨の花、スモモの花、母が植えた花々が綺麗に咲く。
田んぼに水をはり、田植えが始まる。私も、朝早く起きて、学校に行く前に苗の水やりや朝食の支度などを手伝った。

当時の川は、自然のままで田んぼも農薬はあまり使わなかったので、ドジョウなども沢山いた。
『ドジョウ買いのおじさん』がいた時代だ。
兄が毎朝、仕掛けて置いたドジョウ獲りのカゴを見に行き、とったドジョウをドラム缶に集める。
毎日、集めたドジョウは、日曜日に買い取りに来てくれる。
多い時は、二万円を超える事もあった。
それは、兄のお小遣いになり、その中から私はいつもお小遣いを貰っていた。
優しい兄だった。
ドジョウはと言うと、空輸で東京方面に運ばれ、料亭などで皆様に食されていたそうだ。

やがて、田中角栄日本列島改造論が始まり一区画の田んぼの面積を大きくし、大型機械が入れるようにし、農薬を多く使い、作業の効率化を求める方針に変わっていった。農家は多額の借金を背負い、機械を買い、やがて借金を返せなくなり、自己破産をし、農家を止める人々が増えていった。
運悪く、その頃は天候も悪く、大きな台風被害もあり田畑が全滅となった地域もあった。

ドジョウもいなくなり、残ったのは借金と夫婦喧嘩の日々だった。

何事も人のせいにする父。母がきちんとしないから状況が悪くなったと、全ては母のせい。

母は、あまりの心労で胃と腸を3分の2切除するほどの大きな病気になった。

壮絶だった。酔った父は、鎌や鍬を持ち『殺してやる』と追いかけてくる。逃げるのに必至な母は私たちを車に乗せ、当ても無く、家を出た。湖に向かい、子供と一緒に死のうとしたが、そんな事はできず、父の姉に連絡をして、中に入ってもらい、代々続いた農家を精算し、自己破産をし、土地を売る事にした。

そんな両親は、やはりお人好しだった。
土地を売って残ったお金を数千万円持っていた。
ある時、それを聞きつけた知り合いが、お金を借りにきた。数百万円。商売が行き詰まり、一か八かの借金だ。ちょっと考えると、返す当てなどないのがわかるはずだ。頼まれたら、断れない性格。
数回にわたり、数百万を貸した。そして最後に借りに来たお金を持って、夜逃げをされた。まあ、人を騙すよりは、騙される方がいいと言う人もいるが。

世の中には、世間には腹黒な人がいるがそれを知らずに、詐欺にあったりするのだろうか。

私は、大学入学に失敗をし、社会人になった。私は、まさに『井の中の蛙大海を知らずな子』だった。

私は、社会人になり会社の資金繰に困ったからサラ金から借りてきてくれないか。支払いは、会社でするからと言われ、またまた断る事が出来ず、ズルズルとサラ金にハマっていった。両親と同じかな。

母が亡くなって、一度だけ死にそうになった事があった。私にとって唯一私を理解してくれているのは、母だと思っていた。その母が突然、自ら命をたった。
眠れない日が続いた。もともと、両親に似てお酒が大好きだった私は、お酒を飲んでも、眠れません。周りの人は、病院で薬をもらった方がいいよと言ってくれた。
お酒を飲んで、薬を飲んで、それでも眠れません。
だんだん、量が増えて。
ある日の朝起きたら、部屋中に吐瀉物、頭には大きなタンコブが出来ていた。びっくりしたのと、大変な事をしてしまったと言う反省と、これ以上我が家の事で周りに迷惑はかけられないと深く深く反省をし、睡眠薬を止めた。
頭の打ちどころが悪かったら、死んでいたかも知れなかった。

30歳過ぎまで、サラ金の整理ができずにいたが、その頃、その会社も倒産し、ついに私も自己破産をし借金から逃れる事ができた。

その時期と前後して父が亡くなり、私は父の老後をみる必要が無くなり、1人ボッチになった。言葉を変えれば自由になった。30歳半ば。

結婚をしようとは、思わなかった。しかし、子供は産みたかった。結婚は、両親の二の舞だと思っていた。
ちょうど、お付き合いしていた人との間に子供が出来た。
中絶しようかとも考え、病院に行った。しかし、流産しかけているとの診断に何故かこの子は、産まないと私の人生は終わると、思った。
たまたま、ドラマで未婚の母をテーマに
放送されていた。なーんだ、未婚でも大丈夫。変な勇気が湧いてきた。

入院を勧められたが、断り、毎日点滴に通った。何故か、妊娠は誰にも気付かれなかった。ちょっと、太ったかなと思われていた。産まれるその日まで、働いていた。

そして、元気な娘が生まれた。
この子と2人で生きていく決心をした。誰にもこの事は話さなかった。

4か月で、保育園に入園。健康であればすくすく育つと、考えていたが、そうも簡単にいかないのが子育てだと感じた。
現在20数年が過ぎ、娘に『発達障害、ADHD、自閉スペクトラム症』と言う診断名がついた。

保育園時代、先生から「この子、人と目を合わせようとしないよ」と言われたり

雪遊びに外に行くのに、準備しているうちに、他の友達は遊び終わって帰ってきたり

小学生になると、不登校になり、その頃は、原因がわからなかった。
学校に数ヶ月一緒に通い、教室の後ろで授業が終わるまで、ただひたすら座っていた。娘は、平常と変わらず友達と遊んだり、給食を食べたりしていた。

今になって、全ては病気のせいだったと理解ができた。

小学生では、上手く言葉に出来ない事も『あの頃は、こう言う理由で学校がいやだったんだ』今はきちんと説明をしてくれる。

やがて中学生になり、いっそう人間関係がうまくできず、不登校が続いた。
高校に行く為、塾に通った。成績は良かった。『カメラアイ』と言う能力を持っていた。
しかし、環境が変わると不安になるため試験会場では、成績がガタ落ちになる。

だから高校は単願で行ける私立に入学した。
高校に入り、不登校になった事もあったが、何とか出席日数をクリアでき卒業できた。

その後、一年の浪人期間を経て、大学入学。一人暮らしを始め、全力で毎日を過ごしたんだと思う。

2年生の前期を終え、力尽きてしまった。
点滴を受けながら、授業にでて、気を失い車椅子で保健室に運ばれる、そんな毎日を繰り返し、主治医とも相談し退学を決めた。

それから、6年ほど病名がわからないまま、次々と出てくる症状と戦った。
そんな、日々だった。
薬が合わなかったり、誤診で入院させられたり、左顔面が崩れてきたり、声が出なくなったり、娘も生きている心地がしない日々が続いたと思う。
その中で、私がガンになり、手術を受けたり。

娘も私も、毎日生きている事が大変だった。

それを乗り越えて、今病名がはっきりして、それにあった薬を処方され、娘は少しずつ明るくなり、笑顔が増えてきた。自分で病気を理解し、受け入れられるようになったと思う。

何度、『生きてさえいれば、いい事があるよ、必ず良くなるから』と励ましあったことか。

やっと、生きてるだけで丸儲けのスタートラインに立てたような、気がする。

還暦を過ぎ、何か新しい事を始めようかと考えてる。
何が出来るか、わからないが、きっと何か見つかる気がする。
まずは、散歩から始めようかな。

人との付き合いも断ち、全て娘との生活に全力を注いできた。
お酒もやめた。

少しずつ、体力を取り戻し、娘と旅行に行ったり、食事にいったり、のんびり長生きができたらいいなあ。

『人生、生きているだけでまるもうけ』を悠々と楽しみたい。


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