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記事「ジミー・Kのガレージでの長い夜を経て、NAの最も価値ある歴史的文書がいまWSOへともたらされた」ーThe NA Way マガジン1998年 4月号より



 あなた方のフェローシップの歴史を記録する書物について想像してみてほしい。広い部屋の中で、蛍光灯が立ち並ぶキャビネットを照らしている。その中には長い間ナルコティクス アノニマスで印刷された意義のあるすべてが保管されている。すべてカタログ化して、選任された者によってせっせと回収することができた。残念ながらまだ回収されずに残っているものもあるけれど、いまほとんどの書類がワールド・サービス・オフィス(以下WSO)にある。

 1997年4月、WSOの共同執行役員の一人であるジョージ・ホラハンは、ジミー・Kの後継者から一本の電話を受けた。ジミー・Kが所有していた場所に残されたNAに関連するものをWSOが所有したいかどうか?という話だった。

 WSOは控えめに「興味がある」と応えた。ジョージが言うには「本当に驚いて、同時に大喜びしたよ。私はこの機会を80年代の半頃からずっと待っていたんだ」ということだった。日取りが決まり、ジョージは書類を取りに行き、それをWSOに運び込んだ。上で述べたような歴史的な書類の夢を乗せたヴィジョンを持ったものだとしても、WSOに着いたものは、悪夢のように腐食したカードボックス、回復の始まりを感じさせる馬鹿でかいステッカーがいたるところに貼られたファイルキャビネット、壊れた事務用品、ダメになってしまった録音テープ類、それでも気品を持っていた。NAのワールド・サービス・オフィスのモダンな建物の中にあると、場違いのように見えた。


 しかしながら、その荒れ放題のものは畏敬の念を思い起こさせる。私たちがどれだけ遠くまでやってきたのか思うと、NAの始まりはなんと著しく謙虚であろうか!世界規模のフェローシップはこれから端を発したのだ。ハイヤーパワーが宿っている!


 WSOの正社員の一人、スティーブ ラントスはそれをカタログ化する仕事を請け、その書類群を整理した。その骨の折れる仕事は150平方フィートの紙類、録音テープ類、その他のアイテムで、少なくとも何ヶ月もかかりそうに見えた。


 その予想は当たった。スティーブの最終報告は1997年の10月まで待たなければならなかった。その報告書の中で、彼は文書類の内容と、それぞれのアイテムの持つ意義について述べている。その中の一つを取り上げてみると、あるアイテムの意義は明白なものもあり、赤いカバーのされた#1の第一版ベーシックテキスト。それから時間が経ってから判明したものもあった。それぞれのアイテムにはナンバーが振られていた。#1081のように、NAを南カルフォルニアで始まることになる、1953年の8月17日から12月18日の間に行われたミーティングでも控えのためのメモなどだ。


 それで何がわかったか?


 もっとも興味深く、感情を揺さぶったものは、ジミー・Kの思索やメモ書きだった。ジミーはサービスやナルコティクス アノニマスの方向性に関して多く書いているが、それはすべて回復のための考えをもとにしたものだった。それらの多くが私たちが今日知っているNAの形態に関連したアイテムだった。そこにはトラスティ(信頼のおける人たち)の活動とサービス機構が1960年代の中ごろから1983年にかけて発展していったことが記述されていた。


 スティーブの最終報告で、1950年代1960年代のNAだけでなく、今のNAにとってもジミー・Kがどれだけ重要であるかを気づかされたと述べている。世界規模のフェローシップとしてのNAのためのジミーのアイデアとヴィジョンは、明白に記録されたものに反映されている。たとえば、ジミーが描いた複数の円とその円の外側へと向かう四本の線でデザインされたNAロゴ。その中の四本線に対して、彼のオリジナルのアイデアが誤解されて後に伝わっていた。ダンボールに張られた元のNAロゴを見ると、明らかに4方向にわたって、NAの夢の広がりを指すように、矢印マークで書かれている。しかしながら、後の解釈ではその四本線はキリスト教のシンボルのように書かれていた。その記述はカンファレンスでの動議の結果削除された。

 これはジミー・Kによって書かれたオリジナルのNAロゴだ。ロゴのまわりを囲むそれぞれの円の以下の記述のように対応している。「A」の文字の中の色のないドットは、神をあらわしている。一番内側の円の黄色の部分は力と勇気をあらわしている。次の緑のリングは、友情を表している。そして青、平和と平安を表している。一番外側の赤、愛を表している。

 


 何年ものあいだ、NAの始まりの真実は、生き残りのメンバーたちの強い意見と、あいまいな話のまま、神話と伝説で覆われていた。ありがたいことにこれらの文書の中の歴史的な記述の復元によって、私たちのフェローシップとしてのNAがまた若かった時代に光をあててくれることになった。アイテム#1081は南カルフォルニアでのNAの情報について載っている。アイテム#1082では8月17日のミーティングで決められたオリジナルの付則について書かれている。考慮すべきは#1220のアイテムだ。これは喚起される内容の小冊子で、1950年代の後半にダニエル・イーガン司祭によって書かれたものだ。彼は「ジャンキー・プリースト」として知られていた。その小冊子でダニー・カールソンがニューヨークでNAムーブメントを先導したと書かれている。


 ジミー・Kはまた、ホワイトブックの中で、AAのメンバーの何人かと一緒に今日知られているナルコティクス アノニマスを、1953年の7月に形作ったと語っている(この月についてはNAの記念祭のときにいろいろな意見が上がった。最初のビジネスミーティングの1953年の8月17日という意見。最初のリカバリーミーティングは1953年の10月3日だった)。事実としては、その形作られた初期のミーティングは「サンフェルナンド・ヴァリー・ナルコティクス アノニマス&アルコホーリクス・アノニマス」と呼ばれていた。


 AAからのNAの分離は、それ以降ほぼ50年にわたってさまざまな問題を提起しながら続いている。AAワールドサービスがNAに、AAの12のステップと伝統を使うこと改訂することを許可するレターを含む文書も存在する。AAでも並行してその問題について関連する物が二つある。一つがおそらくAAで出されていた「ナルコティクス アノニマスはあなたのためのもの?」の原型となるもので、それにはAAの直接的な問題となっていた、AAでもアディクトの回復について書かれていた。もう一つは、ビル・W(AAの創立者)によって書かれた記事でAAミーティングでもドラッグ アディクトの問題について扱ったものだ。


 またこの問題に関連した事が、1980年代の半ばにホワイトブックの内容の変化に表れている。これらの変化は、NAでの薬物依存についての哲学が明確になり力強くなったことを示唆している。アルコールとは単に一つの薬物であって、「薬物の選択」としてアルコールを選んだメンバーもNAだけで、その人の回復を支えるに耐えうることを断言している。またこの問題に関連して、AAに出ているトラステッド・サーバンド(信頼できる奉仕者)がアディクションの問題としてNAやその他に来ることについて、メンバーたちからトラスティ(信任者)に対し、NAのメンバーシップを明確化するようにとの要望があり、その意見の一致した記録も残っている。


 NAの発展についての膨大な量の文献が残されていて、その改訂版が年月をかけて作られてきた。もっとも長く、そしてもっとも痛みを伴う物の一つに私たちのフェローシップが長年直面してきた、ベーシックテキストの伝統4と9についてのオリジナルエッセイの改訂文章で、それはWSCの関連した数々の行動により、様々な文章のなかでテキストが変化していっている。変更ページを責任あるトラステッド・サーバントによってマーキングされて、サインされたものが植字された。それから、1976年からリトル・ホワイトブックレットのためにコピーライト(版権)のスタンプするために使われた印がキャビネットから発見された。中でももっともひきつけられ、もっとも心が温まる発見が、最初のベーシックテキスト(Narcotics Anonymousというタイトルの青いハードカバーの本)用に書かれた、カバーと背表紙のためのアートワークとベーシックテキストの物語の原稿の発見だった。

 アーカイブズ(文書群)、NAでの優先順位がこの記事の話題に関連する大量の文書類から反映するとなると、世界的にメッセージを運ぶことがそのリストの一番上に上がることは明らかだ。「フェローシップの発展」についてがこのアーカイブの大きなセクションを占める。

 
 今日の形作られているNAコミュニティが最初にコンタクトするものが、いつもNAコミュニティであるとは限らない。ときどき精神保健の専門家や、聖職者が何とかNA文献の一部を手に入れて―しかし彼らはまったくNAが何であるかを理解していないのだが―彼らは今苦しんでいるアディクトのために財政援助から祈りまで何でもやると願い出てくれる。しかし、そのような始まりの頃から、NAは新しい場所でしっかりと根付いて、成長してきた。アーカイブズの中には、新しくできたNAコミュニティとの最初のやり取りが残されている。オーストラリア、ブラジル、エクアドル、フランス、アイスランド、アイルランド、イタリア、日本、メキシコ、ニュージーランド、ペルー、ポーランド、スリランカ、スウェーデン、そして韓国。

 これらの記録が今日のフェローシップにとってどういう意味があるのか?

 スティーブは最終報告で次のように語っています。

「記録は計り知れない意味をもち・・・・WSOが、フェローシップの知的財産を扱うために信任された者としての立場を考えさせられる、AAワールドサービスからの許可通知はそれだけで、大きな発見だった・・・・同様に、薬物の詳細、特性から離れることの理由を説明する記事もあり、AAからNAへの変更点、第一ステップの変化に大いなる価値があった・・・・」

 NAの初期の時代、1950年代、1960年代のフェローシップを語る人はたくさんいるが、本当に誰がそこにいたかを知る人は少ない。そしてその少数の人たちがNAの起源を知るものを持っている。今回見つかった書類などは、今のWSOへとつながるフェローシップはNAが形作られた時へと時間を巻き戻す歴史的な記録を保持している。


 しかしもしかすると最も価値のあるものは、触れられるものではなく、最初の30年間にこのフェローシップをサービスしたある男性についての証拠が得られたことだ。第一のパイオニアとして、彼を中傷するものたちがいる、また彼を偶像化する人たちもいるし、単なる人間以上の者として尊敬する人もいる、または彼がその影響力や権限を、ときどき度を越して使っていたと感じた人もいる。それはそれぞれの読者が発見して判断していただくことだが、読み進めるうちに明らかになったのは、ジミー・Kとは先見の明がある人物で、「アディクションの発症からの解放」を見つけて、他の人々を手助けすることにその人生をかけて挑んでいたということだ。



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