北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ
その31 標茶町営軌道のはなし その1
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線の廃線跡を主にした記事を投稿しています。
ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま、書いていこうと思います。個人的主観で、なるべく有名でなさそうなものを・・・
今回は、簡易軌道当別線(当別町営軌道)とともに、簡易軌道(殖民軌道)としては珍しく、戦後に新設された簡易軌道標茶線(標茶町営軌道)です。
2.標茶町営軌道
標茶町営軌道は、標茶駅前~開運町~御卒別の本線23㎞、中御卒別~沼幌の支線6.5㎞でした。
開通は1955(昭和30)年5月に開運町から神社前まで運行をはじめ、1958年には上御卒別まで全通、さらに1961年には開運町から釧路川対岸の標茶駅前まで開通しています。1966年には沼幌支線も開通しました。
標茶町営軌道の特徴は、なんといってもガーダー9連、延長184mに及ぶ、おそらく殖民軌道(簡易軌道)史上最長の第3号橋梁でしょう。
しかし、この橋のある、開運町~標茶駅前間は1967年には廃止、わずか6年間しか本来の役割を果たしませんでした。
せっかく国鉄駅に接続をはかったのに、よほど利用者が少なかったのでしょうか。たしかに、「標茶駅前」とはいうものの、駅から離れた市街北端にありましたから、道路橋「開運橋」を渡り、開運町停留場へ行ったほうが、買物などには便利だったのかもしれません。
廃止後は人道橋「風運橋」として整備され、橋から道道までも遊歩道化されています。軌道開通以来半世紀後、2011年に撤去されるまで、人道橋の時代のほうがずっと長かったことになります。
沼幌支線も開通4年あまりの1970年には運行されなくなり、本線も翌年7月運行停止、8月廃線式を行ない、15年の生涯を閉じました。
3.標茶町営軌道の車輌
車輌は自走客車(ディーゼルカー)3輛ですが、ディーゼル機関車6輛もありました。
自走客車は1958年釧路製作所の第1作が入線しています。のちの同社製とはちがい、屋根上の通風器が国鉄客車のようなガーランド型で、側面の窓枠下角にRがついていました。
1961年に入線した車輌も泰和車輌工業の第2作目で、これが以後、泰和製の標準型となります。
1965年には泰和車輌工業製が増備されましたが、これは前照灯が窓下両側にある最終型でした。また、簡易軌道最後の自走客車でもあります。
ディーゼル機関車6輛は、すべて製造メーカーやエンジン形式が違い、これでは保守管理がたいへんだったことがうかがえます。
なかでも藻琴線から転入してきた機関車は、簡易軌道唯一の日立製作所製だった幌延町営軌道(簡易軌道問寒別線)1・2号機を、1957年泰和車輌工業でコピーした機関車(3号機)でした。
幌延町営軌道廃止後、東藻琴村営軌道(簡易軌道藻琴線)へ、さらに標茶町営軌道へ転属しましたが、結局ここでは使用されなかったそうです。
ほかにも北炭機械工業製の機関車など、珍しい機関車がありました。
唯一の客車は、これも個性的な形をした、運輸工業製でした。
今回はこのへんで。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
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