見出し画像

北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ

その18 幌延ほろのべ町営軌道の残影(1)

1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます。

ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線廃線跡を主にした記事を投稿しています。

ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま書いていこうと思います。
同世代のかたや先輩諸氏にとっては、ご存じのことが多いでしょうが。

2.幌延町営軌道のあらまし

1/2万5千地形図「豊神」昭和32年測量(部分) 二十線から幌延炭鉱への軌道も記入されている

幌延町営軌道は、1930(昭和5)年開通、戦前は殖民軌道問寒別線といわれ、最終的には問寒別といかんべつから二十線までが運行されていました。

簡易軌道は、ほんらい農業関係の輸送が多いですが、幌延町営軌道は二十線の奥にあった幌延炭鉱の石炭輸送や原木輸送にも活躍しています。

簡易軌道としては最末期まで残った路線のひとつですが、1971年5月31日の運行を最後に廃止されています。

ほかの簡易軌道とは異なり、ディーゼルカー(自走客車)は入線せず、最後まで機関車牽引の列車でした。

3.幌延町営軌道の保存車輌

幌延町営軌道廃止後、ディーゼル機関車と客車が、宗谷本線幌延駅からもほど近い名林めいりん公園に保存されました

ディーゼル機関車は、1967年泰和たいわ車輌工業製造の50号でした。
簡易軌道のディーゼル機関車としては珍しく、通常のL形(エンドキャブ)ではなく、凸型(セミセンターキャブ)なのが特徴です。
問寒別線では最新だったためか、1971年7月行なわれた廃線式で運転された、さよなら列車にも使われています。

泰和車輌工業は、札幌市西区琴似にあった車輌メーカーで、簡易軌道の車輌メーカーとして知られ、ほかにも北海道の私鉄の車輌の改造・鋼体化や修理、さらには国鉄客車の台車なども製造しています。
鉄道車輌関係の事業から撤退後も、比較的近年まで会社自体は存続していました。

名林公園の50号 タイトル写真を含めすべて1990年11月撮影
同 バックビュー

客車は簡易軌道当別とうべつ(札沼線石狩当別~大袋。1956年廃止)から来た、1950年日本鉄道自動車工業製造のボギー車で、本州の車輌メーカー製でした。

簡易軌道では、ふつうの鉄道のような、「DB1」「ホハ2」「キハ3」「ワ4」といった記号番号は、車体に表記されていませんでした。正式な記号番号がないことも多く、エンジン形式などで区別していた軌道もあります。
鶴居村営軌道では「若鶴号」「丹頂号」などいわれていましたが、車体には表記されていませんでした。
しかし、この幌延町営軌道の客車には、ハ1・2という記号番号があり、車体にも表記されていた時期もありました。

1963・64年に泰和車輌工業で、当別線時代からの木造鋼板張り車体を鋼体化しています。窓は元は1段下降窓だった側窓を2段窓とし、その上段と妻窓がHゴム支持になりましたが、基本的な形は変わっていません。

名林公園のハ1か2
同 外観に負けず劣らず悲惨な状態の車内

機関車・客車とも塗装は現役当時を思わせますが、単にさよなら列車で運転された後、一度も塗り替えていないだけかもしれません。
ろくに手入れをしなかったのか、撮影時点では、窓ガラスはすべてなく、車体は錆だらけ。保存というより、放置といったほうがよいような状態でした。
出張中のこととてカメラがなく、駅で買ったレンズつきフィルムで撮ったので、写真もヒドく、再訪を期していましたが、翌年には解体撤去されてしまいました。

今回はここまでです。

お読みくださり、ありがとうございました。

次回は問寒別と二十線のいま・むかしです。

ご意見・ご感想、そしてご要望など、どうぞお寄せください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?