見出し画像

北海道の廃線跡探訪 第46回 根北線斜里~越川間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます。

北海道の廃線跡探訪第46回 根北こんぽく斜里しゃり越川こしかわです。

根北線は、路線長も営業期間も短く、路盤の大半が市街地化、農地化されています。
駅跡に残る遺構も、越川の貨物ホームらしきものだけですが、越川の先の未成区間にある第1幾品川いくしながわ橋梁(越川橋梁)がよく知られています。

なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.根北線小史

根北線は1937(昭和12)年斜里~越川間、その翌年越川~上越川間を着工したが、戦争の影響で中止、1952年7月再開され、1957年11月10日斜里~越川間12.8㎞が開業した

線名(「根」室国と「北」見国)が示すように、本来は標津しべつ線根室標津までの計画だったが、越川以遠の工事が再開されることはなかった。

営業成績は不振を極め、開業1年足らずで、唯一の有人中間駅だった以久科いくしなが無人化され、1960年7月には貨物営業もなくなる。
1962年には終点の越川も無人化、国鉄有数の赤字線として知られるようになる。

『昭和38年度 鉄道要覧』の線別営業係数によると、根北線は前年度唯一1,000を超えた1,139だったが、当年度は999と改善されている。それでもワースト1であることは変わらなかった(ブービーは三江南さんこうなん線の936)。

こうした営業成績では延長どころではなく、開業当初からずっと4往復だった列車も、1969年10月改正で朝夕の2往復となり、1970年12月1日ついに廃止された

営業期間13年は、国鉄の単独路線としては最短命だった

3.斜里(現・知床斜里しれとこしゃり)~以久科

1/5万地形図「斜里」昭和37年資料修正に加筆

1998(平成10)年4月、知床斜里と改称された斜里は、2007年モダンな駅舎に改築されている。

①跨線橋が見えなければ、ちょっと駅舎とは思えない知床斜里駅舎 2022年5月撮影

根北線が使っていた駅舎側の切り欠きホームは、貨物側線ともども埋められ、貨物ホームの跡は駐車場になっている。

①撤去された根北線ホームと貨物ホーム 2022年5月撮影

釧網本線と並行していた根北線の跡は、今でも空き地になっている。

南へ曲がる釧網本線と離れた先に短く築堤が残り、その端にサラパ川橋梁の橋台がある

②釧網本線との並行区間 根北線は直進していた 2022年5月撮影
③両側に残るサラパ川橋梁の橋台 2022年5月撮影

根北線は道道92号・国道334号と少し離れたところを並行して、一直線に南東へ向かっていた。道道沿いの市街地では宅地化され、国道沿いでは農地化され、路盤の痕跡は見あたらない

国道が東に曲がるところで、根北線は直進し、以久科に入っていた。

4.以久科~下越川

1/5万地形図「斜里」昭和37年資料修正に加筆

以久科は農地の真ん中になってしまい、廃止後もしばらく残っていた駅舎や官舎はおろか、路盤もなくなっている。突き当たりに駅舎があったと思われる通路があるだけである。

正面には斜里岳が変わらず美しい姿を見せているのが、せめてもの慰めだった。

④以久科駅への通路? 2022年5月撮影
④上写真と同位置から駅舎(左)と官舎(右)を望む 1993年8月撮影
④以久科駅舎(左)と鉄道官舎(右) 1993年8月撮影

以久科からも路盤は農地となり、西二線仮乗降場も場所さえわからない
もっとも、根北線の仮乗降場はホームだけで、それも必要最低限のドア1枚分しかないものだったから、路盤さえ消えている現在では、痕跡がないのも当然であろう。

下越川の手前から農道に並行するようになり、用水路に小さなコンクリート製の橋が残っている。サラパ川橋梁以来久々の痕跡だが、前後の路盤はない。

⑤農地の作業道の横に小さなコンクリート橋だけが残る 2022年5月撮影

丘と幾品川が迫ったところにあった下越川も、農地化されてまったく跡形はない

⑥下越川駅跡? 越川方を望む 2022年5月撮影

5.下越川~越川

1/5万地形図「峰浜」昭和37年資料修正に加筆

下越川を出ると、すぐ25‰の急勾配があり、越川へ向け上っていくが、あいかわらず路盤は消失、途中の用水路にも痕跡はなかった。

それでも国道224号とクロスする手前にわずかに路盤が残り、その手前にコンクリート製の橋がある

⑦国道とクロスする手前に残るコンクリート橋 2022年5月撮影
⑦コンクリート橋から国道へ続く築堤 2022年5月撮影

国道踏切跡にはなにもなく、その先も地形が改変されていて、路盤ははっきりしない。

下越川~越川間にも西二線仮乗降場と同形態の十四号・十六号の仮乗降場があったが、こちらもわからない

途中の用水路に溝橋があり、そこから少し路盤が作業道になっているが、大半は農地化されている。

越川の手前に、コンクリート造の夕立川橋梁が残り、その先の樹林のなかに路盤が続いている。

⑧夕立川橋梁 左手の下越川方の路盤は消失 2023年5月撮影
⑧夕立川橋梁から越川方を望む 2023年5月撮影

越川は駅舎と3棟6戸の官舎や貨物上屋、転車台まである駅だった。
現在では国道から駅への通路さえなくなり、完全に農地化されている。しかし、畦道を駅跡へ向かうと、玉石をコンクリートで固めた、細流をくぐる塊があった。

⑨畦道となった取付道路跡 2022年5月撮影

これは駅のあった痕跡かもしれないと思い、下越川方を探すと、ササヤブのなかにホーム擁壁があった。建設年月を示す「1957-10」の陰刻もはっきりわかる。古レールの柱が建っていたと思われるコンクリートの基礎もあったから、貨物ホーム跡らしい
国土地理院の空中写真で見ると、位置はだいたいあっているように思える。

⑨貨物ホーム擁壁? 2022年5月撮影
⑨同擁壁に残る陰刻 2022年5月撮影

駅近くには、かつて戦後直後まで駅逓所が置かれていた。その管理をしていた平田宅前に「平田宅」バス停があった。長い間、時刻表にも載っており、子供のころ、「個人の家にバスが停まるのか! さすがは北海道!」とビックリした。今では、その斜里~標津間のバスも廃止されている。

余談だが、今でも北海道の地方に行くと、同じようなバス停はよく見かける。いくつかバリエーションがあり、たとえば、手塚宅・小野寺宅から、ずばり手塚前・小野寺前、あるいは、(呼び捨ては失礼なので)手塚さん宅とか小野寺さん宅といったものもある。住民の名前が変わったときは、バス停の名前も変わるのだろう。

6.第1幾品川橋梁(越川橋梁)

越川から先は未成線だが、名所になっている第1幾品川橋梁(越川橋梁)がある
かつては10連アーチ橋だったが、国道拡幅により橋脚2本(アーチ3連)が撤去され、越川方の6連と根室標津方の1連に分断されている。

この橋の文化財的価値が認められている現在だったら、国道の上下車線を分け、それぞれアーチの下部を通すようにしたかもしれないが、当時は、その存在は知られてはいたものの、それほど重要視されていなかったのだろう。

⑩第1幾品川橋梁 越川方の6連 2022年5月撮影

現在では国指定登録有形文化財となり、根室標津方の1連の前には、解説板のある駐車場も整備されている。

⑩駐車場にある解説板 2022年5月撮影

幾品川へ下りると、越川方の6連をよく見ることができる。全景を撮るには、よほどの広角レンズを使うか、河中に入らないと難しい。

⑩幾品川の河原から見た越川方の6連 2022年5月撮影(タイトル写真も同じ)

今回はここまでです。

おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

次回は松前線を予定しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?