北海道の廃線跡探訪 第78回 札沼線(1/2) 新十津川~雨竜間
1.ごあいさつ
ご訪問ありがとうございます。
北海道の廃線跡探訪第78回 札沼線新十津川~石狩沼田間その1 新十津川~雨竜間です。
札沼線の最初の廃線区間は、2010年の最初の取材時でも、あまり遺構がありませんでした。
廃止からすでに半世紀以上過ぎ、このまま変わりなくと思っていましたが、意外にも近年撤去された施設もあります。
今回の起点、新十津川駅跡は2020年の廃止後、公園として整備されています。
これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。
2.札沼線小史
石狩川右岸の鉄道は明治時代から計画されていたが、実際の建設は昭和になってから始まった。
1931(昭和6)年10月10日石狩沼田~中徳富(改称/新十津川)間が札沼北線として、つづいて1934年10月10日札沼北線中徳富~浦臼間、11月20日札沼南線桑園~石狩当別間が開業、翌年10月3日には石狩当別~浦臼間が開業して全通、札沼線となった。
石狩川を間に函館本線と並行する札沼線は、戦時中に不要不急路線とされ、1943年10月石狩月形~石狩追分間、翌年7月石狩当別~石狩月形間、石狩追分~石狩沼田間が休止となり、線路は撤去された。
戦後1946年12月10日石狩当別~浦臼間が早々と再開され、1953年11月3日浦臼~雨竜間、1956年11月16日雨竜~石狩沼田間を最後に、全線が復活している。
しかし、もともと輸送需要が少なかった新十津川~石狩沼田間は1972年6月19日廃止となった。
残りの区間は、桑園~北海道医療大学間が電化、一部は複線化されるなど札幌近郊路線として成長したが、非電化のまま残された北海道医療大学~新十津川間は乗客減少が続き、2020(令和2)年4月17日が最終運行となった(正式廃止は5月7日)。
奇しくも、戦時中に休止撤去されなかった区間が残ったことになる。
3.新十津川
開業時の中徳富は、復活時の1953年11月に新十津川と改称された。読みは「しんとつかわ」のはずだが、時刻表では1997年3月号まで「しんとつがわ」となっている。
2016(平成28)年3月改正で、それまで1日3本あった列車が朝1本だけとなる。
この列車も30分ほどで折り返してしまうので、もはや鉄道としてというより、公共交通機関としての役割を終えているように感じられた。
北海道医療大学~新十津川廃止後、駅舎は撤去され、旧構内は「駅跡地さくら公園」として整備された。
擁壁材を利用して作り替えた?ホームや駅名標、解説板が設置されている。
線路も敷きなおされ、かつては石狩沼田方のかなり遠方にあった車止めが移設されている。
4.新十津川~上徳富
新十津川の先の路盤は、住宅地となってまったく痕跡はなく、徳富川へ向かっていた築堤も崩されている。
徳富川橋梁は水路橋に転用され、本流部分のガーダーと橋脚は変わっているが、河岸の部分は鉄道橋当時のまま。
徳富川を渡った先の路盤も見事に耕地整理されて何もなく、石狩橋本は大きな農業倉庫が建っているのでそれとわかるが、駅跡自体は宅地化されている。
石狩橋本から上徳富までも路盤は耕地整理で跡形なく、上徳富手前の志寸川も河川改修されて橋の跡はない。
上徳富駅跡は、廃止後しばらくあった駅舎はなくなっているが、荒れ果てた旧鉄道官舎があり、前後の路盤もわずかに残っている。
5.上徳富~雨竜
上徳富から少し行くと、用水路を跨いでいたコンクリートの橋があるが、路盤はきれいに消えている。
1956年11月の全線復活時、渭ノ津・中ノ岱・五ヶ山の各駅、仮乗降場の南雨竜・中雨竜と同時に設置された北上徳富駅は、北大和区自治会館(今はない)の西側らしいが、路盤ともども痕跡はまったくない。路盤の切れ端なのか、北十号線道路踏切跡の新十津川方に土盛りがあるが。
その先の尾白利加川には崩れかけた橋脚が残っているが、前後に路盤はなく、ここから雨竜町に入る。
南雨竜仮乗降場には農業施設が建ち、跡形はない。
雨竜市街の手前から、路盤は雨竜駅構内まで舗装道路となっている。
駅跡附近には大きな農業倉庫が建ち並び、国道275号からの旧駅前通りの突き当たりには、駅跡を示す小さな石碑が建てられている。
旧構内には記念に保存されたのであろう腕木式信号機が建ち、旧駅前には旧鉄道官舎もあり、駅があった雰囲気は残っている。
腕木式信号機は矢羽根やガラスも失われているなど状態が悪いが、もはやこれ以上破損するところもなくなったのか、2023年10月時点でも、変わらなかった。
今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。
次回は雨竜から石狩沼田へ向かいます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?