見出し画像

人間関係の予測困難性と相手を思う気持ち

皆様ご無沙汰しております。ぐらです。その節はフォロー・スキを頂き大変感謝しております。代表してここでご挨拶と、今回の記事を書きたいと思います。久しぶりになりますので緊張気味ですが、丁寧に書きたいと思います(*^-^*)

私は現在仕事をしながらの記事投稿をすることになり、体調を崩した時期もありましたが元気にやっております(*'▽')

今回の記事は色々な方がお悩みだと思う、人間関係のあり方にとってのお悩みに少しでもご助力できればと思う、記事を書きたいと思います。

デリダという哲学者は「現実が真実である」と書いております。

これはフランス語の原書で邦訳ですと「声と現象」というタイトルになります。読み進めていくとはっきりと「現実が真実である」と書かれてあります。

このことの波及的問題は、現実に対する認識の理論的構築はいかにして可能か、という問題を生みます。ある認識が言葉を通して自己にも他者にも伝わるとするならば、その理解は社会的に何を意味するのか、という問題も含みます。

ここにおいてデリダは認識という言葉の理解がなされないと書いています。認識も理解もある言葉の発話によって(自己の世界であっても)言葉が同一と思われる現象からの意味同定性をなしえない時、意味は意味の表現でしかないと私の解釈では思いました。

つまり、認識も理解も現象の確実さを持つことはできないということです。そこにおいて認識や理解という決定論的な意味は意味作用でしかなく、了解の範囲において、記号的生成を行わざるをえないとしました。

一方でハーバーマスがコミュニケーションを可能にしているものは、意味の確実さではなく、デリダの理論も批判的に受け入れながら、間主観的な相互行為において可能にしていると述べました。

間主観性を徹底的に理論化したのは、フッサールが代表的だと思いますが、間主観性は主体の現象に対するイメージが、相互行為において主観の交換とある程度の一致にみられると述べました。

つまり、現実妥当的とは会話などにおいて、主体の主観的把握を免れることはできず、相互行為の客観性は現実という無限な現象を前にしては、主観的状況を無視することはできないとしました。

したがって文字通りに解釈すれば、現実妥当性とは現実の巨大な深遠さを前に、主観の相互交換がいかにして、把持できる交換をなしえるかにかかっているということです。

確かにヴィトゲンシュタインが、「論理哲学論考」の中で「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」といっておりその後に「現実の全体が世界である」ともいっており、この事実という装置は、「不測の事態」(contingency)の事実を顧慮した上での理論化と思えます。

しかしデリダがいかに意味の到来をなしえないと仮定したとするならば、私たちが複雑なコミュニケーションを行えるのはなぜか、という問題が残ります。

また「不測の事態」が現実にある時、間主観的な相互交換は意味交換を行っているともいえそうにありません。しばしば、コミュニケーションにとっては「不測の事態」がその対話を円滑にすることがあります。

例えば「水を持ってこい」と宴会で店員に言ったとした場合、店員の誤りによってお湯をもってくることもあるでしょう。しかし宴会でお湯割りを飲んでいたとしたら、お湯でも状況は収まることもあり、店員との会話は簡単な対話の誤りであっても成立してしまうことがあります。

つまり人間関係の最高の意思の伝達手段はコミュニケーションだと思いますが、予測通りに進むことはなく、常に現実を前にすると良きにも悪くにもなり、私たちは希望をもって人間関係を続けるのがよいかと思うのです。

人間関係において、予測できないことは不安や恐怖につながることもありますが、前向きでいることは、事態の変化が良くなることはありうるし、そもそもの人間関係は、私たちが一般的に普通にこなしている、相手を思う気持ちによって大きく左右するように思えます。

                                                                                                                   ぐら

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?