労働Ⅲ

 経済における雇用は、消費者の需要によって生み出されるものである。経済発展が進めば、市場の拡大や締結と共に、一社会において多量多種の物資が供給されることになり、それが一社会における豊かさを示す指標となる。ところで、経済を構成する企業は、利潤の極大化を企図して、生産活動を続けている。企業にとって、雇用は、それが生み出す富よりも少ない時に初めて意味をなすものである。社会が貧しい時であろうと、豊かな説きであろうと企業のこの姿勢は変わることはない。そして、企業が生残するためには、資本の蓄積が必要であり、その蓄積は利潤によって維持され、増幅される。この利潤は、企業の財・サービスを購入する消費者によって齎されているものである。企業と同じように、消費者もまたその欲望にとって最適な行動を行う。彼は出来るだけ生活に関わる費用を制御するよう形で消費を行うだろう。企業と消費者のこの最適な行動は、当然豊かな社会においても継続されるだろう。
 豊かな社会は、それが具有する発達した産業や科学の技術、あるいは他国との比較優位的な交換によって、生産に対する労働力を低減せしめることができる。人間の力でまかなっていた労働を他の代替手段によって実行することができるし、また完成した高価で高品質な低次財によって、他国の消費財を大量に購入することができる。これによって豊かな社会は、人的な労働力の投入力を出来る限りおさえ、富を最大限に生み出そうとするのである。豊かな社会において、その豊かさを享受している企業は、その資本を護持し、費用を節減するために、できるだけ人的な労働力を減らすか、あるいは安価な人的労働力の確保やその体制の構築を求めるだろう。ともあれ、豊かな社会において雇用の絶対数の減少、あるいは雇用の法的設備・改変が実施される傾向が生まれやすい。これによって、労働供給者は新たな社会的局面に遭遇することになる。全く未知の雇用形態に従事するか、あるいは失業者としての生活をおくらざるをえなくなるのである。一社会の富の絶対量が増大しているのにもかかわらず、こういった現象が生じるのである。それは、偏に、自由主義社会において、経済主体の所有権が認められているということに淵源しているのである。 
 しかしながら、豊かな社会において、このような現象が生じるからとって、飢餓が襲来するわけではないことは自明である。なぜならば、自由主義社会においては政府が機能しているからである(それが存在するが故に所有権が存在するのである)。政府は、失業者を救済するための社会保障費の為に、企業ないし個人から徴税するだろう。この徴税分を基に、豊かな社会においては失業者の生活が庇護され、時には、それが公共事業という形で、失業者に雇用を与えることになるだろう。
 豊かな社会における消費もまた、企業のような節減を採用することになる。消費者は、豊かな社会において、その生活の全てを出来るだけ安価な財によってまかなうことを意志するだろう。消費者は往々にして労働者であるので、経済成長期においては、所得の増加を経験することができている。そして、それと供に消費者の貯蓄も増大し、相対的に消費が低落することになる。消費の低落と物価の下落、豊かな成熟した社会におけるこの現象は、企業の絶対的な利潤にとってはマイナスの効果を持っている。しかしながら、前掲したように、企業は豊かな社会において、最適な運営と活動方式を獲得しているが故に、最終的には、この需要の全体的な低落を、生産費の節倹によって乗り越えようとするのである。すくなくとも、豊かな社会において、消費者と企業は、「前段階」の経済状態における関係と、少しも変化のない関係を結ぶことができている。
 これは一社会における経済の均衡であり、その均衡は、貧しい社会おける均衡、つまり、消費と投資の増大という関係と、質的には変わらないものである。
 しかながら、豊かな社会において最も重要な問題は、人間存在そのものの問題であるということを忘れるわけには行かない。ある哲学者は豊かな社会において、怠惰はもはや一国の経済においては特に問題にならず、それは社会の成熟であるから放置し、認容すべきであると言っている。確かに、この論理については、経済学者も特に容喙しないだろう。しかし、例えば、前掲した公共事業に関して考証してみよう。それは市場の論理を一切無視した、役人の主観的な設計によってなされるものである。最もわかりやすい例としての、建設事業があるが、この事業は野放図にすすめられれば、疑いなく、国庫に対して大きな負担をもたらすものになるだろう。しかし、そこで公共事業を制限するかどうかは、経済主体としての人間が下すのではなく、政治権力が下すのである。もし、その政治権力が事業関連者に対して情実をもっているのであれば、この権力によって、国庫の負担は存置されたり、あるいは更なる大きな負担が齎されるだろう。そして、その負担を補完するのは徴税なのである。この徴税分は、個人と企業にとっての負担を意味している。あるいは、失業者に対する社会保障を考えてみよう。適切な公共事業の発動が存在しない場合には、豊かな社会においては失業者に雇用ではなく、貨幣ないし現物としての生活要素が付与されるだろう。例え、これが無為であるとしても、経済社会においては、彼らは労働市場に参入できない者たちである。それゆえ、この社会保障は治安維持としての有意性を有しているのだから、必要でないわけはないだろう。しかしながら、人間の性質は、無為の中で大きく変化するものである。例えば、彼らは労働をしてないからといって、家庭を持つことを禁じられているわけではない。彼らは与えられた生活要素でもって、自らの設計に基づいて家族を養ったり、子供を育てたりする権利を持っている。しかしながら、人間は無為の中では、積極的な人間としての活動に従事したがらない傾向を持っている。また彼は、社会的参加が果たせられていなければ、人間としての権利のすべてを放擲しなければならないという考えに容易に屈してしまう。もちろん、ある国家の国憲の理念(勤労の権利等)、あるいは世故的な価値観によって、そのような考えをもたされることもあるだろう。しかしながら、豊かな社会にあっては、その豊かな社会を操作する一部の人間たちとの比較が常に瀰漫せざるを得ないのである。人間はパンだけではいきるのではない、というのは正に至言であり、殊にパンに事欠かないような豊かな社会においては、この言葉が全ての社会人をとらえているのである。豊かな社会にあっては、労働は権利であり、名誉になるときもあるのである。豊かな社会で、失業者が、たとえその数が夥多であるとしても、自らを没落者であると考えないことはないだろう。彼は、たとえ自らが労働市場から除外されているとしても、何とかして労働市場への参入を企図するだろう。
 豊かな社会においては、このような人間性に発する問題が、経済社会の中で明瞭なものになってくるだろう。
 しかし、このような心理的な問題と同時に、別の人間性の問題もまた存在するだろう。豊かな社会にあっては、企業は人的労働力自体を減らすことに努めるが、しかしこれに代替する手段は当然存在する。それは、企業側に有利な条件において、人的労働力を利用することができるような法体制・社会設備の確立がなされることである。企業にとって、人的労働力は絶対に不要であるわけではない。人的労働力は機械を補完する役目を持っているし、また付帯的な業務において必ず必要になるものである(ここでは経営者は人的労働力とはみなさない)。また、労働の不効用が著しく高い人的労働は、社会においてかならず求められるものであり、このような労働によって事業を行っている企業にとって、人的労働力は主要な生産要素である。そこで、企業は最も負担とならないよう形での、人的労働力の確保を求めるのだが、それは雇用形態が企業側にとって最も有益なものになるように、政府に対して働き掛けるという行動においてあらわれるのである。あるいは、政府が国庫の拡充のために、企業側のその要求があらわれる前に、先手を打って法改正に着手するというものである。あるいは、次のごとく大々的な社会改造が開始されるかもしれない。例えば、そのような人的労働力に外国人を採用する傾向をつくりだすことである。

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