高岡利彦

テーラワーダ仏教と呼ばれる教えに帰依し、瞑想実践もしています。そうしたことについて、た…

高岡利彦

テーラワーダ仏教と呼ばれる教えに帰依し、瞑想実践もしています。そうしたことについて、たまに記事を書くつもりです。 なお、高岡利彦という名前は本名ではなく、noteでのハンドルネームになります。 生きとし生けるものが幸福でありますように。

最近の記事

2023.6.4

死後のことはさておき、今生で悪を為さないこと、善のみを為すこと、完璧な人格となることである。 苦が苦であれば悪となる。 苦は、欲があれば生じる。苦は、欲がなければ生じない。 欲を肯定し是として認め、それを満たしていくことに価値を認めることの結果として、 欲が満たされないことに怒りを生じ、そのことを当然と見做し、その怒りを晴らすことを認めることになる。 苦は欲を根本原因として生じ、欲を縁として生じる。 ならばと、欲をなくそうとすると、そのことによってまた苦が生じる。欲が

    • 2023年5月15日

      スマナサーラ長老の動画を見てテーラワーダ仏教を知り、瞑想初心者指導も受ける前に、絶対に解脱するのだ、と決意したのは昨年の冬。 その決意はいまこれを書いている現在も揺らがない。ただし、それがいかなることなのかは、以前よりは少しずつ理解できてきている部分は増えてきている。 先日思い至ったこと。お布施などの善行為をし続け、より功徳があると思えるお布施をしたりすると、大変な喜悦を感じる。 そこで、これをまたやりたい、やり続けたい、と思った。そこでハタと思った、これは愛着、執着で

      • 2023年4月3日

        初めてテーラワーダ仏教の教えに触れたのは2021年の11月13日。スマナサーラ長老のお説法のYouTube動画を通してであった。日付はYouTubeの視聴記録で確認できる。 日本テーラワーダ仏教協会に入会して、行事に参加して、先輩在家信者の方々、お坊様と実際に接するようになったのは2022年の暮れ。同じ頃にスマナサーラ長老から初心者瞑想指導を受けた。 いつ頃からか、人生は完全に変わった。仕事や、やるべき雑務のほかは、ほぼすべての時間が仏教に関わることになった。瞑想しているか

        • すべてのものは生滅する、すべての現象は生滅の過程にある一時的な幻のようなものである、すべては常ならぬ無常なものである。執着できるものはなにもない。 そのように理解して、いま、ひとつ乗り越えられない反論妄想がある。 生滅する過程での一時的な現象であるからこそ、その一時的な現象に執着するのではないか。 常ではないからこそ、その消えていく一瞬に価値があるのではないか。シャボン玉に執着してどうするのだ、と教えていただくが、すぐに消える儚いものであるからこそ、その一瞬の現象の流れに

          考えていること

          殺生は戒められています。例外として認められる場合というものが説かれているという覚えはないです。いかなる場合も守るように戒めている戒律のひとつが殺生戒なのだと認識しています。 致死性の病原菌を媒介する、蚊などの虫があるとして、殺生戒で考えても、その虫を殺すことは悪行為となると認識しています。 でも、その虫に刺されたら自分は死んでしまう。 その虫を殺すことは悪。 では、その虫を殺して自分が生き長らえることは善か悪か? 虫を殺したことは悪。 自分が生き長らえること自体には

          考えていること

          身口意に気を付ける

          身口意で悪を為さないようにしよう、と戒めるつもりで生活するようにしています。ここ数日、改めてそれが困難であると感じています。 口、は、まだなんとかしやすいと思っています。なんなら黙っていれば悪を為しようがないと思います。 身は難しいと感じます。気付きが追いついていれば、「これから為そうとしていることは善いことか悪いことか」と考えてから行動できますが、後から「なんであんなことをしてしまったんだろう」という、まったく気付きが追いついていないなかで行為をしてしまうような場合には

          身口意に気を付ける

          衝撃のことば

          10代後半から20代前半にかけて、かなり真剣に格闘技に取り組んでいた時期がありました。 その頃の思い出で、いま思えば大変に真理をついた、お釈迦様の言葉にも通じるような出来事がありました。 日本のトップや世界を目指している人たちが集まる練習会に参加していたときのことです。 私自身は、真剣に練習してはいたものの、ガチで日本のトップや世界を目指す者達と練習して、「こりゃ俺にはこの世界はムリだわ」と感じていました。 そんなある日、複数の世界チャンピオンを育てた名伯楽として知られる

          衝撃のことば

          いままでの経緯

          長らく宗教は忌諱して生きてきました。 いまでも「宗教」という言葉には警戒をします。盲信は危険であろうと思っています。 色々なことがあって、一年ほど前に「スマナサーラ」という名前の方が話をしている動画を見ることになりました。"「わたし」とは何ですか?"というタイトルの付いた、2時間近い動画でした。 その感想を言葉にするのは難しいです。感動、とも違うし、衝撃、とも違う。見たあとでは「当たり前のことを言っている」という感想も言えましたが、それも感想として妥当とは思えません。 と

          いままでの経緯