衝撃のことば

10代後半から20代前半にかけて、かなり真剣に格闘技に取り組んでいた時期がありました。
その頃の思い出で、いま思えば大変に真理をついた、お釈迦様の言葉にも通じるような出来事がありました。

日本のトップや世界を目指している人たちが集まる練習会に参加していたときのことです。
私自身は、真剣に練習してはいたものの、ガチで日本のトップや世界を目指す者達と練習して、「こりゃ俺にはこの世界はムリだわ」と感じていました。

そんなある日、複数の世界チャンピオンを育てた名伯楽として知られる師範が指導する、激しい練習のさなか。バケモノのように強いY選手が心肺機能の苦痛に顔を歪めながら動いているのを見て師範が檄を飛ばしました。

「Y!苦しそうな顔をするな!お前は苦しくないんだ!苦しいのはお前の身体であってお前じゃないんだ!苦しい顔をするな!」

ムチャクチャ言うな…と思ったのを覚えています。しかし、まだそれなりに試合での勝利を目指していた私は、名伯楽の言う言葉の真偽が気になって試してみたのです。そしたら、確かにそう感じられたのです。ボディやローキックを効かされていても、別に「俺は」痛くない、苦しくない。ボディや脚が苦痛でも、さっきまでのデートを思い出せば気分は楽しくなったりしたのです。痛くない!と思えば痛くなかったのです。

考えてみれば、試合で選手が「痛い」と思ったらもう負けです。そんなこと考えてもいませんでしたが、いま思えば「身体への衝撃」と観察して戦っているうちは勝負できていたのです。

でも、残念ながら、そこ止まりでした。そこからダンマに至ることはなく、テーラワーダの教えに出会うまで、その言葉は「やっぱり格闘家はメチャクチャな生き物だ」というある種の自慢話のネタにしかできていませんでした。

一昨年の暮れにスマナサーラ長老の法話動画を見ていて、あの師範の言葉はまさに無我につながる大変な言葉だったんじゃないか、と気付いて、なんともいえない気分になったものです。格闘家、武術家は、解脱へのみちと近い、ちょっと並走するようなみちには至ることが多いかもしれない、と思いました。でも、結局そのみちは重なることはなく、やはりお釈迦様の教えに従うしかないのだとも理解しました。結局、格闘家や武術家のみちは最後まで「強くなりたい私」から離れ難いのです。完璧に相手が崩れるときには「自分を消さねばならない」と教えてもらえます。その偉大な先生も、結局は「そういう自分」は捨てることができないのでしょう。その名伯楽の先生も、本当に師匠として尊敬していますが、このテーラワーダの教えという観点では、大事なヒントを自ら発見できていながら、その先には行けないままお亡くなりになってしまいました。

俗世間的にはなんの問題もないことですが、輪廻の観点でみると、なんとももったいないことなのかもしれません。


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