日本の家族法制の転換点「共同親権」〜本当に守るべきなのは誰か

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要約
・離婚後も共同で親権を行使することを認める「共同親権」の制定が検討されている
・賛成反対両意見をまとめた上で、私見を述べるならばどちらかというと反対という立場をとる。理由は以下2つ。
・共同親権が導入されることのリスクの大きさを考えると、導入のメリットはそれを上回るものと言えない。
・海外では共同親権が導入されつつあるものの、それは海外においては法的にも親であることに対する考え方が違うことが多く、日本においてそのまま導入するべきものとは思えない。
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1 議論が進む共同親権


現状日本では両親が離婚した場合両親のどちらかが親権を握り、共同で親権を行使することはできないことになっています。

それに対し、親権を共同で行使できるようにしようという議論が本格的進んでいます。

全国民が関わる重要な話であるにも関わらず、あまり報道で大きく取り上げられていないように感じます。

この記事では現状の議論の流れをおおまかにまとめた上で私自身の意見を述べていきたいと思います。


2 賛成意見・反対意見まとめ


まず、政府のまとめた中間試案及び、東京弁護士会の意見書を参考に、現状の賛成意見と反対意見を箇条書きにします。

賛成意見

・離婚後も双方の親が子の養育に責任を持つべきであり、その方が子の福祉にも資することになる。
・通信技術の発達により、離婚後の夫婦が共同で子どもに関わることも現実的になってきている。
・社会的にも離婚が一般的になりつつある中で、夫婦としては失敗しても子育てはしっかりしていきたいという家族にとっては、共同親権が重要な手段になり得る
・反対派のいうような離婚におけるDV・モラハラ事案はそこまで多くない。また、DV・モラハラ事案においては単独親権にするなど柔軟な対応は取れるようになっている。
・諸外国においては共同親権が一般的になりつつあり、国連による勧告においても子どもの利益のために共同親権の導入が望ましいとされている。

反対意見

・DVモラハラ事案においては、共同親権がつきまといの口実になってしまう可能性があり、DVモラハラ被害者が子の成長まで被害を受け続けることになり得る。
・DVモラハラの立証の困難さから考えると「性格の違い」とされる離婚においても相当数のDVモラハラ案件があると想像される。
・諸外国に比べてDVモラハラ等に対する行政による公的介入が弱い日本においては、共同親権の導入は時期尚早である。
・別居している親による関わりが子の福祉に資する場面が想定できず、立法の必要性がない。

(賛成、反対という書き方をしましたが、共同親権の導入について具体的な制度設計は何パターンかあり、単純な賛成反対で論じられないところもあることは留意しておきます)

現状、賛成、反対、どちらの考えが支配的とまではいえず、弁護士会の意見書も立場を明記することは避けた書き方をしています。

この記事は共同親権の導入に反対の立場から書こうと思います。以下理由を列挙します。


3 本当に守らなければならないのはDVモラハラ被害者

まず、「法は誰のためにあるべきか」というところから考えたいと思います。(最近そういう系の勉強をしているので書いてみたくなりました。回りくどく感じるかもしれませんが、少々お付き合いください笑)

この点についてはいろいろな意見があると思いますし、場面によっても考え方は違いますが、基本的には法律は選挙で選ばれた議員によって国会で成立するものですから「国民のためにある」ということが基盤にはあるといえます。

しかし、「国民のためにある」というだけでは法律の理解としては不十分です。国民の中にはいろいろな考え方や立場の人がいますから、等しく全員の利益になるように法律を作るということはかなり難しいです。国民の中で誰かを優先させなければならないことも出てきます。

ですから「法は誰のためにあるのか」ということをもう少し深めて考える必要があります。そのために、「そもそもなぜ法があるのか」ということについて社会契約論という考え方を借ります。

社会契約論はホッブスやロックといった思想家により形成された考え方で、自然状態(法律や国家のない状態)で起こる不都合を解決するために、人々は契約を締結して国家ないし法律を形成すると考えます。

つまり、国家や法律がなければ、暴力が支配する恐ろしい世界(自然状態)になるからそれを防ぐためにみんなが決め事をするという考え方です。(ロックとホッブスで考え方は若干違うのですが、今回はホッブスの考え方が近いです)

では、自然状態で困るのは誰か。私は「弱者」だと思います。

そして、私はこの記事では、社会契約論をもとに「法は弱者のためにある」と考えます。

一言に弱者と言っても色々な基準があります。腕力なのか、経済力なのか、社会的地位なのか、さまざまな基準でさまざまな「弱者」が存在します。

そこで、私なりに弱者と強者を定義しておくと、
「弱者」とは「法律がなければ自分を守ることができない人」
「強者」とは「法律がなくても自分で何とかできる人」
と定義しておこうと思います。

つまり、自然状態で困る人のために法律があると私は考えました。

では、本件において守るべき弱者は誰か。

私は本件における弱者はDV・モラハラ被害者だと思います。このような人たちは法律により強制的に加害者から分離をしなければ自分を守ることが困難です。「法律がなければ自分を守ることができない人」と言えるため「弱者」にあたります。

一方、共同親権賛成派の主張の趣旨は、夫婦として離婚をしても共同で子育てをすることは可能で、そのような家族のために共同親権の道を開くべきである、というものです。
しかし、離婚後も共に子どもを育てていく意思を持っている家族は、比較的関係が円満といえ、法律により共同親権がなかったとしても自分達で自主的に共同で子育てを進めていくことが可能でしょう。そのような人たちにとって、共同親権は「あれば便利」くらいなものと言えます。だとすれば「法律がなくても自分で何とかできる」ので強者です。

離婚のうちDVモラハラ案件がどれだけあるのかは、弁護士によっても見方が違うでしょうし、正確なことは言えません。

しかし、法律によって守られるべきは誰かということを考えたときに、「あれば便利」程度の「強者」の利益のために「あったら困る」という切実な状況にある「弱者」であるDVモラハラ被害者が窮地に立たされるのは妥当とは言えません。


4 結局離婚協議が揉めることには変わらない

共同親権の話を友人などにすると「結局問題解決にならないのではないか」と言われることがありますが、その感覚は間違っていないと思います。この節ではもう少しその感覚的な話を法的な言葉で置き換えます。

政府の試案によれば、共同親権を認める場合も「監護権者」はどちらかに定めるという案が検討されています。

「親権」の中身は教育権や監護権などいくつかの権利に分かれています(懲戒権というものもありましたが最近削除されました)。

離婚後は夫婦が別居するのが通常ですから、子どもはどちらかの元で暮らさなければなりません。そうだとすると仮に親権を共同で行使するとしても、監護権はどちらかに決めるのが現実的だと考えられます。

そうだとすると、たとえ親権は共同だとしても、監護権をどちらにするのか、要するに「どちらと暮らすのか」ということは決めなければならなくなり、離婚協議が揉めることには変わりがありません。


5 親であることは「権利」か「義務」か

最後に海外との比較で考えます。

海外では共同親権が主流になりつつあるようですが、「親である」ということに対する考え方が日本語海外では違うと私は感じています。

親であるということは「権利」であると同時に「義務」も伴います。考えてみれば当たり前です。

日本の法律では「権利」の側面が強調されているように感じます。

それは「親権」という言葉にも表れていますし、今後法律上も「親権」に代わる新たな用語を使おうという検討はされていますが、現状具体的な案は出てきていません。
しっくりくる言葉が見つからないということは、その考え方が歴史的・伝統的に根付いていない証拠とも言えます。
(海外でどのような言葉が使われているかは勉強不足で分かりません。調べておきます)

また、親であることに対する考え方の違いはジャニーズ問題で海外の法律と日本の法律を比較した時にも感じたので興味のある方は以前の記事をご参照ください。
親の義務や責任を強調した点において、日本の法律との違いを感じます。

共同親権を認めた海外の法律は離婚後も共同で親権を行使する方が、子どもにとってより良いことであるという考え方が根底にあります。

しかし、それは親であることの「義務」や「責任」を強調した海外だから成立します。

親であることを権利と捉える日本において、共同親権が海外と同様に子どもの福祉にとって良い状況となるかどうかは慎重に考える必要があります。

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