「教養」ってなんだろう「知性」ってなんだろう

先日友人とキャンプに行った時の話です。

初めてのキャンプでした。
苦労して起こした焚き火を囲みながら、東京では決して見られない満点の星空の下、ホットワインを啜る。

「こんな時にウクレレでも弾けたらなー」

そう言った僕に友人は大体のキャンプ場では楽器が禁止されていることを教えてくれました。

「静かに自然を楽しもうと思っているのに隣から楽器が聞こえてきたら迷惑だろ」

友人はそう言いました。

さて、ここで困ったことが起きます。
僕には全くそうは思えないのです。

まあ、流石にいきなりヘビーメタルガンガンに流されたり、聞くに耐えない下手くそな演奏だったりしたら嫌かもしれませんが、隣のキャンパーが楽器を奏で始めたらむしろ僕はその方が風情あっていいな、なんて思います。

演奏が終わったら大きな拍手を送って「ブラボー」なんて言ってみたり。

そういう人と人の繋がりがあったっていいじゃないか。

その一方で、自然の中で静寂を楽しみたいという人の気持ちもわかります。

タイトルと話している内容がかけ離れていますね。

ちょっと強引なのはお許しください。

ただ、僕が言いたいのは価値観って多様だよってことです。価値観の多様性って、何も国籍の違いとか文化の違いとか、そんな大きな話しなくても日常に溢れているっていうことを言うためにこの例を出しました。

そして、違う価値観はおそらく感情として「共感する」ということは難しいことだと思います。

キャンプで音楽を楽しみたい人と、静寂を楽しみたい人、感情としてお互い共感し合うことは簡単ではありません。

しかし、お互いの価値観を認め合うことはできます。

それこそが「教養」ではないかと僕は考えています。

つまり、「自分とは違う価値観を理解するように努力すること」それを「教養」と僕は呼びます。

この定義は少し世間のイメージとは違うかもしれません。
「教養があるとは知識があること」というのがもっとわかりやすいイメージです。

僕の教養の定義に当てはめると、これは正しくもあり間違いでもあります。

知識があることが教養があることではなく、教養があるから知識がついてくる、というべきでしょうか。

つまり、自分とは違う価値観を理解しようと思えば新しい知識を学ぶ必要があります。だから知識が必然的についてくるというだけの話です。

キャンプの例で言うと、音楽というものの楽しさを知っている人はキャンプで楽器を弾きたくなる人の感情は理解できますし、逆に静寂を楽しむというキャンプの文化を知っている人は楽器を迷惑に感じる人の気持ちもわかります。

さらに、例えば音楽の歴史的に、焚き火を囲んで歌を歌うことが音楽の原点だったとか(例えばの話です、実際のところは知りません)、キャンプとはそもそも人間関係から切り離して生活し自分を見つめるためのものだったとか、そういう知識を持っている人はより深く相手の価値観を理解できます。

例えば難しい文学作品が読めるかどうか、ということも教養人の条件のように語られますが、理解できなくてもその作品で語られる価値観を「理解しようとしている」だけで教養人を名乗っていいはずです。


さて、タイトルにある「知性」とは何か、というところに話を進めると、僕は「知性」とは違う価値観の人と「折り合いをつけられる」ことにあると思います。

そして、違う価値観の人と折り合いをつけるためにはその価値観を理解することが必要ですから、教養があることが前提となります。

キャンプの例で言うと、例えば、私がキャンプ静寂派だったとして、隣のキャンパーが楽器を弾き始めたとします。

これに対し、怒鳴り込んだり、逆に仲間内で陰口を叩いたり、そういうことをしては知性があるとは思えません。

まずは、「教養」を使って相手の価値観を理解します。

その後どういう行動を取るかは知性の範囲です。

隣のキャンパーと話し合って、音量を下げてもらったり、時間を区切ってもらったりという行動を取ることもできます。

楽器オッケーなキャンプ場を教えてあげるのも親切な行動です。

もしくは「こういうちょっと賑やかなキャンプもありかもしれない」と新しい価値観を楽しんでみる、と言うのも1つの行動です。

また、揉め事が起こらないようにあらかじめルールを決めておく、と言うのも1つの知性の表れでしょう。
それが国家レベルになったものが今僕が学んでいる法律なのかなと思ったり。

「知性」とか「教養」って役に立たないもの、というイメージはあるかもしれません。でも、自分と違う価値観の人と関わったり、自分の価値観を広げたり、そういうことのためには絶対に必要なものだと思います。


でも、「知性」って現代社会ではちょっと違った意味合いに使われている気がします。

「正解を出し続けること」が「知性」であると思われていないでしょうか?

キャンプの例でいうと、「キャンプ場では楽器を弾いてはいけない」という「正解」を知っていることが知性であると考えられていないでしょうか?

キャンプ場で楽器を弾いてはいけないというのはキャンプ場の運営者が決めたルールですからもちろん僕は従います。

でもそれは絶対的な正解なのか。

いろいろな価値観がある中で、揉め事を防ぐためにキャンプの運営者が決めたルールがそうであるというだけであって、その価値観が正しいという保証はないわけです。

もちろんルールに従うことは必要だと思います。

でもそれだけでいいのか。

その先に行くために「知性」や「教養」があるんじゃないかと思います。


「教養」ってなんだろう、「知性」ってなんだろう。

この記事で書いたのは僕なりの考えです。

これが正解だなんてこれっぽっちも思ってないですし、僕自身も1年後には違うことを言ってると思います。

皆さんにとっての「教養」ってなんですか?「知性」ってなんですか?

もしお会いすることがあったらぜひ聞かせてほしいです。





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