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見ている目線は人生の集大成 身口意とは/仏教 写真

通勤や通学もしくはいつもの散歩コース

車の運転などをしている時、人によって

必ず見ているポイントがあると思います。


角までいったらこの花を見るとか

街灯を見ていたり木を見たり

何かしらその人の目線があります。


それは大きく言えばその人の人生の集大成の

瞬間であると思うのです。

景色を見て「ああ、綺麗だなぁ」

と感動していたり、

それはその人の人生で様々なことを経験し

心で思い言葉にしてきた結果なのです。

それを仏教では身口意と言います。


身で行動したこと


口にしてきたこと


意(こころ)でおもっていること


この3つによって人格が創られます。


ですので景色を見たりいつも歩いている所を

その人なりの目線で見ているものが違ったり

というのは当然なのです。


それが上手く表れているのが写真だなぁと

思うんです。

先程言ったように身口意つまりその人の今までの

人生の集大成が刻一刻とアップデートされていき

目にしたものを写真にしていく

だから面白いんです。


とかく写真の世界は構図とか角度とか露出とか

そんな事が先行しがちです。

勝手に基準を作りこうじゃなければ下手とか

上手いとか、その世界だけで通用するルールを

身勝手に作り上げ人を裁きがちです。


どの世界もですが特にプロにこういった人が

多いので必ずしもセミプロやプロが言っていることは正しいわけではありません

専門的な人ほど業界の価値観に染まり盲目的な

人間は多いものです。

特にYouTubeなどにお気をつけください。



多数の価値観、その世界の美徳や過去の技法

その通りにやればその世界の人達は

あなたを称賛し仕事も入り生きていけるでしょう


ですが私はそんなものとっとと

捨てちまったほうが良いと思っています。

それで評価されたところでなんの意味も

ありません。


何故なら己の心は現れていないからです

人からの評価や仕事になる、ならないというものは

小さい我に過ぎません。


その人の目線 その人の人生そのものが

構図を決め角度を決め露出も決めていくのです。

だからこそ様々な写真がある

こんな素敵なことはありません。


そして

そういう気持ちで撮るには大事なことがあります


それは日々の心を磨くことです。

先程申したように


日々 どんな行動をしているのか


日々どんなことを言葉にしているのか


日々どんなことを心で思っているのか


これによって見るもの出会うものが

全然変わってくるのです。

その心がちゃんと、写真に現れてくれれば

それが真実ではないでしょうか。


撮ろうとしなくていい

撮らせてもらえますから大丈夫です。


私はプロの写真家ではないですが

真理というのは1つなのです

2つも3つもあるわけではありません。



私事ですが

私はプロのギタリストとして

20年以上 生業にしてきました。


私は長い時間をかけて音楽に囚われ悩み苦しみ

ジャンルに囚われ音楽業界の考え方に縛られ

何が正しいのかさえわからなくなりました。


そして一時期 人格まで変わってしまい

本当に愚かな事だったと思います。


そんな時 ジャンルだとか音楽業界の考え方

今まで培ってきた技術全てを捨てて

何も考えず即興で音を出すようになり

やっと己の心が音に表れてきました。

そんな経験から写真も同じように考えています。


日々の心持ちが行動になり言葉になり

正しい方向に向かいます。

それが必ず写真になる、ただそれだけなのです

それ以上もそれ以下もありません。


それで文句を言われたら

その人の目が盲目なだけです、言われたことが

良くも悪くも正解とは限りません。

私はそう思います。


言われた事で傷つき

写真を撮ることが辛いならば

こんな悲しいことはありません。


素晴らしい写真ライフを送る事を

私は願ってやみません。




きっと岡本太郎なら


「人に何を言われたって

   自分の写真を撮ればいいんだよ。」


そう言うでしょう。




皆様が幸せに優しい心を取り戻すまで

念じ祈ります。








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