見出し画像

仏教の謝る、反省、許すとは/仏教

誰にでも失敗はありその失敗の中で

痛みを知り人の思いになれたり

次こそはとその失敗の苦を力にする事が

出来ると思うのです。


本日は仏教の話しをさせて頂きたいと

思います。


お釈迦様の教えは八万四千の法門と呼ばれ

無数にあります。

日本では沢山宗派がありますが

お釈迦様が約五十年間、

法を説き広めてくださったものを

簡単に言えば分類されたものですので

宗派が分かれていようと

全てお釈迦様がこの世の真理を説かれたものに

なります。


そして


御入滅される8年前から説いたのが

妙法蓮華経(以後 法華経)というお経であり

これはお釈迦様が1番私達に伝えたかった

お経です。


ですが法華経を最初から説いたのでは周りの人は理解できず教えから遠ざかってしまう為、

方便を使い(教えに気づく段階に合わせた正しい手段の事)理解が深まり機が熟した時に

伝えようと思われたので

四十四年説かなかったと言われています。

その中でも妙法蓮華経は諸教の王だと仰っています。


ちなみにですが

仏教学者が法華経は諸教の王と

「言っている人もいる」と

いち人間が言っているように

思われているようですが

これはお釈迦様が言われている事ですので

即ちこれは真理であります。

たかだか人間如きが妄想で言っている

次元ではございません。

机の前で勉強も良いですが

何故そう言われているのか

己自身が実践してみる事で

本当に理解が深まり悟れると思います。


前置きが長くなってしまいました。





話に戻りますがその法華経に失敗をした時

どの様にしていけば良いかという事も

書かれているのです。


通称 懺悔経「さんげ」と呼ばれるものですが


自分のした事、言葉にした事、心に思う事


そこに誤りがあれば

仏様や仲間であるサンガに謝り教えに気づき

また改めて実践し高めていく事で

罪が消えていくと説かれています。


それによって己の心が、早く清まりますから

仏様に近づいていく大切な教えです。


キリスト教では懺悔「ざんげ」と言いますが

これは謝る事で救われていくのみで

仏教は謝り反省してから「実践」していく

という違いがあります。

キリスト教の事がもし間違っていたら

ご指摘頂けたら幸いです🙏




人の過ちを許すのは大切な事です。


ですが


誰かを傷つけたり迷惑をかけておいて

反省せず人間なんだから仕方がないと

自分自身に思うのは只の怠け者、悪人です

間違っていても間違いを認めないのは愚者です。


昨今

身勝手に教えを解釈して反省もしない

生臭い坊主が今は沢山いるようで

これでは教えは守れないし広まっていかないのは

当然の事だと思います。

世間を出て真理を求めた者が娑婆の享楽に溺れているのだから出家とは名ばかりです

そんな出家した坊主がいると思うと

残念でなりません。


それは法や仏様を謗っているのと

同じであります。

それを仏教では罪と呼ぶのです。



救ってくださるのは仏様ですが

行動に移していくのは己自身です。


そしてその失敗自体が仏様からのお手配であり

私を救ってくださる為に頂いたものであります

実はこの時点で救われているのです。


私達の本来の心は仏様の御心を頂いています

ですので私達は仏様の分身であります。


ならば同じ様に日々一歩ずつ精進していく事で

仏様に少しずつでも近づいていけるのです。



これも変化です

私達はどこまでも高まり変化する事が出来ます

これが本当の諸行無常です。


諸行無常は暗いものではありません

むしろ清々しく前向きな明るいものであります。


ですので

感謝の日々を送り

世の中の人のお役に立つ喜びをもって

その中で懺悔をしながら謙虚に生きていければ

これほどの幸せは無いと思うのです。


お互い様そんなふうに過ごせる方がいたら

私はとっても嬉しく心が1つに感じ

有り難く思います。


本日は少しばかり難しい話しになったと思います

とっても長くて疲れてしまった方もいるかと
思いますが最後まで
読んで頂き有難うございました。


微力ながら何かのお力になれたら幸いであります


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?