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マトリなふたり⑥

第六話 危険なラムネ


「いらっしゃいませ、おひとりさまですか?」

店の受付で応対した黒服のボーイに、池田はMDMAジャンキーたちの源氏名を記したメモを見せながら、「このたち、全員呼べる?」と尋ねた。
黒服は手にしたタブレットの電源を入れ、「キャスト管理」のボタンをタップした。そして池田のメモを見ながら、それぞれの予約状況と突き合わせた。
「う~ん、そうですねぇ……ほとんどのは8時から指名が入っていますので、30分だけなら、全員をおつけできるかと……」
「それでいいよ。よろしく」
黒服にチップを渡しながら、池田は鷹揚にうなずいた。これまでの捜査経験から、30分でカタをつける自信はあった。

黒服の先導で、池田は店のいちばん奥にあるボックス席に案内された。
ほの明るいシーリングライトに照らされたボックス席には、艶やかに黒光りするレザーソファと磨き込まれた白大理石のテーブル、緑豊かな観葉植物が整然と配置され、風俗店の一角というより一流企業の応接間といった風情だった。現役女子大生が多数在籍するキャバクラなら、店内の設備や雰囲気もそれなりだろうと高を括っていたので、すこし意外だった。
池田はL字型レザーソファの真ん中に陣取り、背もたれに身をあずけた。そのまま目を閉じ、静かに呼吸していると、耳の奥に生前の父の自慢げな声がよみがえった。

「俺がこうしてるだけで、女は勝手に俺に惚れるんだ」

能弁より美貌——毛嫌いしていた父と同じ手法で、池田は毎回指一本動かさずにキャバ嬢たちを虜にした。
今回も、同じだった。

黒服に先導され、控室からフロアに出てきたドレス姿のキャバ嬢たちは、ボックス席のレザーソファに長い脚を組んで座る若い男をひと目見て、「うそぉ……」と呟いた。「な? すっげぇイケメンだろ?」黒服が得意げに言った。
池田はうっすらと目を開け、
「あ、どうも……時間までよろしくお願いします」
と、眠そうに目をこすりながら会釈した。まるで徹マン明けでバイトに入った大学生のように。
「こ、こちらこそ、本日はよろしくお願いします!」
赤い顔でドレスの裾をつまんだ女たちが、いっせいに頭を下げた。


MDMAジャンキーであるキャバ嬢たちの口を割らせるのは、予想していたよりずっと簡単だった。ジーンズのポケットに忍ばせておいたラムネを口に放り込んだだけで、女たちは勝手に池田を「仲間」だと思い込んだのだ。

「お好きなんですか? ラムネ」
コースターの上に水割りのグラスを置きながら尋ねてきたのは、最初の「席決めじゃんけん」でみごと勝利し、池田の右隣に座を占めた「まりん」だった。
柳原情報によれば、まりんはSNSでの薬物がらみの呟きがもっとも多い女だ。おそらく、相当に浅慮であけすけな性格なのだろう。
心優しい京本は、柳原が撮影したスクリーンショットを見ながら、
「このお嬢さん、この先の人生が心配ですねぇ……こんなヤバいことまで自分で暴露しちゃって」
と憂い顔で呟いた。
「課長。それは我々の関与することではありませんし、こういう人間がいたほうが捜査には助かりますよ」
池田があえてそっけなく言うと、京本は弱々しく微笑みながらうなずいた。「……ええ、そうですよね。ダメですね、わたしは。まだまだ甘くて……」
――知ってます。だから、いつも隣に俺がいるんですよ。

あのとき飲み込んだ言葉を思い出しながら、池田は口中のラムネを噛み砕き、まりんが作った水割りで飲み下した。
そして、彼女にとびきりのフェイクスマイルを向けながら、
「うん、好き。大学の友だちが教えてくれたんだけど、このラムネを食べると頭がシャキッとして、そのあとトローンと気持ちよくなるんだよね」
過去に逮捕した常習犯から聞いたMDMAの使用感を口にすると、左隣に座った「春奈」が身を乗り出してきた。
「あ、やっぱりそうですよね! うちの大学でもいま、ラムネがめっちゃバズってます!」
「わたしも最近ヤバいくらいラムネが好きでー。大学でも仕事でも、肌身離さず携帯してるんですよー」
まりんがドレスのポケットからピルケースを取り出した。その瞬間、池田の唇に笑みが浮かぶ。やはりこの女は、勤務中でも抑えがきかないほど重度のMDMAジャンキーのようだ。
まりんがケースから取り出した白い錠剤は、一見すると池田のラムネにそっくりだった。彼女がそれを口に入れるのを見届けてから、池田はほかの女たちに視線を向けた。全員の目ががまりんの口元に釘づけで、そのうち何人かがごくり、と唾を飲み込んだのがわかった。

理性をなくした人間は、ちょっと鎌をかけるだけで、マトモな状態なら絶対に話さないことも喋ってくれる。
池田はタイミングを見計らって軽く咳払いをし、標的と定めたまりんに声をかけた。
「そういえば、まりんさん。先日きみのXを見たんだけど、ずいぶんカラフルなラムネを食べてたね。ピンクとか水色とか紫とか……表面に蝶とかチューリップの模様もあったな。あれって、どこの店で売ってるの?」
「ええっ、お兄さん、わたしのXをチェックしてくれてたんですか? いやぁん、嬉しい!……ええとぉ、あのクスリなら、ほら、これ。LINEで売人さんとやりとりして買ってます」
クスリの効果ですっかり酩酊したまりんが、とろんとした目でスマホを差し出してきた。池田はスマホを受け取りながら「いいの? ありがとう」と微笑んだ。

まりんの言うとおり、LINEの内容は彼女と麻薬ブローカーとのやりとりだった。まりんは異様にテンションの高いギャル語、相手は文法がめちゃくちゃな日本語だった。おそらく中国人や東南アジア系の売人なのだろう。それでも売買契約には問題ないようで、メッセージには「ハッパ」や「野菜」など薬物関係の隠語がずらりと並んでいる。
一回あたりの取引額は、5万から10万ほどだ。真面目な勤労学生にとっては安くはないが、ウリをやっている女子大生なら気軽に買えてしまう金額だ。
受け渡しの場所は、ここから歩いて数分の場所にあるO公園や、雑居ビルの裏手などだった。深夜3~5時という時間帯からすると、ここでの勤務終了後に受け取りに行くのだろう。

それにしても、と池田は思った。俺のような一見の客の前で堂々とクスリを食べたり、取引情報を明かしてしまうのは、いくらなんでもガードが甘すぎる。いまどきの女子大生にとっては、MDMAのようなヤバいクスリであっても、あくまでお菓子を食べている感覚で、違法薬物を使っているという罪の意識はまるでないのだろう。
いずれにせよ、このメッセージは薬物売買の貴重な証拠だ。

池田はまりんのスマホをテーブルに置き、ポケットから自分のスマホを取り出した。
「まりんさん、このメッセージ、撮影してもいい? 俺も買ってみたいんだ、このラムネ」
「もち、オッケー! その代わり、チューして!」
まりんはスマホをさっと後ろに隠すと、代わりにグロスを厚塗りした唇をぐっと前に突き出した。
その瞬間、池田は潔く撮影をあきらめた。メッセージの内容はすべて暗記したから、口頭で上司に報告するぶんには、なにも問題ない。
それに、どうせこの女はすぐに警察に逮捕される。LINEをはじめとする薬物売買の証拠集めは、彼らに任せればいい。

「ごめん、じゃあいいや」という池田の返事に、カッとなったまりんがスマホを投げつけてきた。とっさに手刀で叩き落とすと、スマホは大理石の床に衝突し、液晶画面に亀裂が入った。
「なにするのよ!」と怒鳴ったまりんに、ほかのキャバ嬢たちが一斉に詰め寄り、怒号の集中砲火を浴びせた。
「まりん、あんたこそ、だいじなお客さまに何するのよ!」
「スマホを投げつけるなんて……こんなイケメンの顔に傷がついたらどうするの!」
「だ、だってだって……この人がわたしにキスしてくれないからぁっ!」
「チューしてなんて要求するほうがおかしいでしょ! 店長に言いつけるからね!」

まさにそのとき、騒ぎを聞きつけた店長が飛んできて、「おまえたち、なにを騒いでるんだ!」とキャバ嬢たちを𠮟りつけた。
「だって店長、まりんが……」
「あーもういやぁっ! みんなしてわたしを悪者扱いしてぇっ!」
まりんが床にひっくり返って暴れはじめると、彼女の甲高い泣き声を聞いた周囲の客たちが、野次馬根性丸出しで集まってきた。ドレス姿で床の上を七転八倒するまりんを、スマホで撮影する者も現れた。

店長と、応援に駆けつけた数人の黒服が「撮影はやめてください!」と呼びかけるが、酔って強気になった客たちはだれも言うことを聞かず、「いいぞ、姉ちゃん。もっと転がれ!」「スカートがいい感じにめくれあがって、あとちょっとでパンツ見えるぜ」「マ、マジか? ちょっ、ちょっと場所空けて、俺にも最前列で撮らせてくれ!」など、男の欲望むき出しで撮影を続けた。
その頃、池田はすでに席を離れ、トイレに続く通路を歩いていた。約束の20時まで、あと5分しかない。その前に彼女に一報入れておきたかった。

天井に下がった案内板に従って通路を歩き、突き当たりにあるトイレに入った。
さいわい、トイレに先客はいないようだった。池田は個室に入って鍵を閉め、ポケットからスマホを取り出して京本の番号をタップした。

〈あ~、お疲れさまです、池田さん。早いですね~、もう終わったんですか?〉
「ええ、課長。ブツの種類と受け渡し場所の情報を入手しました。これから申し上げますので、メモをとっていただけますか?」
〈はーい、ちょっと待ってくださいねー〉
のんびりした声につづき、がざごそと書類をあさる物音。〈え~と、メモ帳メモ帳……どこにやったっけ?〉
ああ、癒される……そう思いながら、口笛で彼女の好きなK-POPを吹いて待っていると、
〈も~、ダメですよ~池田さん、お仕事中に。ずっと聴いていたくなっちゃうじゃないですか~!〉
とまさかの抗議を受けた。だが、キャバ嬢たちとのやりとりに疲れきっていた心には、それすら嬉しかった。

池田の話をメモに取り終えた京本は、数秒考えこんでから、先ほどとは別人のように凛々しい声で言った。
〈了解です、池田さん。この付近に張り込んでいれば、ブツの斡旋業者を逮捕できそうですね。今夜から数名の方に、交代制で張り込みと尾行をお願いすることにします〉
「そうしていただけると助かります。わたしはまたラウンジに戻って、全員を薬物所持の現行犯で逮捕します。警察には入店時に連絡し、店の外で待機してもらっています」
〈了解です。さすが池田さん……あ、ちょっと待ってください〉
京本が慌ただしく会話を中断した。たぶん部下に声をかけられたのだろう、と池田は思った。時刻は20時近いが、これくらいの残業は課の全員にとって日常茶飯事だ。
こちらから通話を切るべきか、迷っていると、向こうの空気が変わった気配があった。彼女が特殊捜査課のフロアから廊下に出たのだと気づいた瞬間、上司から恋人に切り替えた声が受話口から聞こえた。

〈ごめんね、大樹くん。こんなこと、デスクでは言えないから……〉
「な、なんでしょう、麻実さん……」
池田はごくりと唾を飲み込んだ。「こんなこと」なんて言われたら、いやが上にも期待してしまう。
〈平沢さんとの会議が終わったあとに、来夢ちゃんに言われたの。『課長、いくら仕事でも、嫌なことは嫌って言っていいんですよ!』って……なんのことか、わかるよね?〉
「……ええ。そうですか、来夢ちゃんが……」
ここで来夢の名を聞くとは思わなかった。かつて彼女に告白されたことは、京本には秘密にしている。
〈来夢ちゃんがそんなこと言ったのは、さっきわたしがみんなの前で、大樹くんの服を引っぱったりしたからよね。ああ、恥ずかしいし、情けない……自分の未熟さを思い知ったわ〉
「未熟だなんて、そんなことないです。それに、俺は嬉しかったですよ。任務とはいえ、キャバクラに行く前に笑顔で『行ってらっしゃい!』と言われるのは、やはり寂しいですから」
〈あ、わたし、それずっとやっちゃってたよね。ごめんなさい。それ以外にどうすればいいのかわからなくて……〉
「いえ、責めてるわけじゃないですよ。ただやはり、少しくらいやきもちを焼かれたほうが嬉しいのは事実です」
〈やきもち……うん、そうね。大樹くんのこと、もちろん信じてるけど、美人でグラマーなお姉さんたちに囲まれた大樹くんを想像するの、やっぱり嫌だったもの。童顔で貧乳のわたしなんかが隣にいるより、よっぽど絵になるし……〉
「……麻実さん、そんなに俺に口説かれたいんですか? わかりました。今夜は無理ですけど、明日は必ずお部屋にうかがいます。覚悟していてください」
きゃ~っ、きゃ~っ、と照れまくる京本に、池田は胸が疼くほどの愛おしさを感じながら、「ではまた後ほど」と告げて通話を切った。

トイレを出て通路を歩き、柱の陰から元のボックス席の様子をうかがうと、先ほどの騒動が嘘のように静まり返り、疲れ果てた表情の10人のキャバ嬢たちが、ぐったりとソファに座り込んでいた。
まりんの「撮影会」に興じていた酔っ払い客らは、店長や黒服によって全員店外に追放されたようだ。ボックス席には今、MDMA常習犯の10名のキャバ嬢しかいない。池田にとっては、思わず目をこすりたくなるほど理想的な展開だった。

唇に安堵と満足の笑みを浮かべると、池田は今回の潜入捜査のパートナーである、警視庁薬物銃器対策課の長谷部課長の番号をタップした。
「——長谷部課長、麻薬取締部の池田です。予定どおり、『ロマネスク』への突入をお願いします」

(未完)

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