手紙

静か。ひたすらに静か。深夜は全てのものが自分が独占しているという錯覚に陥るから面白い。部屋の前を気だるげに猫が通りかかる。きっとお前も眠たいんだろうな。少しばかり付き合ってくれと願いつつ部屋の電気を灯し続ける。

手紙が好きだ。その人の思いだとか、感情、歴史が知れるから。だから手紙を渡すのも好きだし、手紙を渡されることも好きである。これまでにもらった手紙は全て保管しているし、たまに読み返しては「ああ、こんなことあったな」なんてセンチメンタルになる。当たり前のことだが、手紙の内容が変わることはあり得ないし、ましてや文字化けして「私はあなたのことが嫌いですよ」なんて厭味ったらしい言葉に変わるはずもない。手紙にはおよそ好意的な言葉が並んでいて、自分がどう見られているのかどう思われているかを客観的にみることができる最高のアイテムだと思う。たった一通もらっただけでも私はひたすらに手紙をくれた人のことを好意的に見るし、何なら無理やりその人の入ってはいけないであろう領域にずかずかと入り人間性を理解しようとしたがる。それで今までに何度も怒られてきたけど。私は手紙を「二人だけの世界」と思うことにしている。誰かがそこに介入できるものでもなく、ただ文字が載っているそれだけの世界。手紙を書くとき、たまに何を書こうか悩むことがある。その時は大抵たかが一枚の紙っぺらのためになんでこんなに頭を抱えているのだろう、と思う。しかし自分にとってはそれはある意味おもちゃみたいなもので、「なきゃないでそれは困るもの」として存在している。何らかのきっかけで手紙を書くことをやめてしまった場合、私は私でなくなってしまうだろう。きっと生気を失った表情をしている。それはやだな。

記憶とは不思議なものだ。ある瞬間に呼び起される私にとっては崇拝すべき何か。私はよくこの記憶というやつにかき乱されることが多く、気分が低下する。その逆も然り。任せろと意気込んでいた友達の指先が震えていたこと、人いきれの中を一緒に歩いたこと、肩を震わせて泣いていたこと、その後優しく微笑んでいたこと。これらすべての記憶は私の脆弱な記憶能力に確かに保管されている。忘れてしまうことは恐ろしい。自分が自分であった瞬間が思い出せないなんて恐ろしいことはない。コンピューターみたいに記憶は正確ではないし、ましてや外部ストレージみたいに容量を追加できますなんてことは私たち人間にはできない。だから人は何かに残す。それは絵であったり言葉であったり音楽であったりと、三種三葉だ。記憶を呼び起こすトリガーはこの世にいくつも存在していて、私の場合それは匂いと音楽になる。どちらも奥底に眠っていたものを鮮明に呼び起してくれ、私のことを泣かせたり懐かしい思いをさせてくれたりする。ありありと流れてくるその記憶の中で眠り続けていたいと思うことはよくある。誰にも邪魔されない自分だけの世界。そんな理想郷があればこんな思いはしてないだろう、と思いながらも人間臭いなとも思う、そんなひと時は案外好きだ。最近は激動の日々を過ごすようになって、よく疲れる。前までは気があっていた人も、セーターに穴が空いてそこから解れていくようにお互いにズレが生じるようになった。遠い昔「その人が怒っている理由に目を向けなさい。それがきっとその人の大切なものだから。」と教わったことがある。これは最近よく感じる。絶対に忘れたくない大切な言葉として、座右の銘として私の中に君臨し続けている。

夜の静けさは続いている。猫は寝た。どうにも落ち着かない様子で。その横で私はとりとめのないことをひたすら書き続けている。ごめんよ、カタカタうるさくて。できるだけ日が上っているうちにやります。

言葉は続く

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